

「聖書の中心的テーマである『メシア』に関する預言」
について、お伝えしています。
「聖書? なんか、かた苦しい道徳的教えが書かれた宗教の本でしょ?」
聖書になじみのない私たち日本人の多くは、そのようなイメージを持っているのではないかと思います。
「道徳的な教え」たしかにそういう一面もありますが、実を言うと、それはこの書の中心的なメッセージではありません。
「心配するな。さあ、顔を上げて希望を持ちなさい。
見よ、私はメチャクチャになってしまったこの世の秩序を、
もう一度、立て直す。そのための人物をあなたがたに遣わす。
あなたがたが信じられるよう、彼についての預言も残しておこう。
さあ、聞く耳のある者は私に立ち返りなさい」
これが、聖書の中心的メッセージです。

【 メシア預言の森 ― meshiayogen no mori ― 】
今や私たちの船は「メシア預言」という名の、”栄光と受難に満ちた広大な森” への上陸へ向け、静けさのただよう入り江へと入ってきました。
ではさっそく上陸に備え、入り江の地形を調査しつつ、停泊できるポイントを探ってみましょう。



※栄養素等表示基準値に基づき、脂質・飽和脂肪酸・n-6系脂肪酸・炭水化物・ナトリウム・熱量を除いて、すべての栄養素で1日分の基準値の1/3以上を含む。
【結論】聖書とは「メシアのことを指し示す書物」である


「油そそがれた者・救い主」って意味だったね。

【聖書とは?】その中心テーマは「メシア」
これまでの記事にて、聖書という書物が 約1500年という長い期間を経て記されたことや、
- 民族指導者
- 国王
- 預言者
- 農夫
- 漁師
- 取税人
- 医者
- 天幕職人
など、身分も時代も全く違う、40人もの人の手を通して書かれたことをお伝えしました。
さらに、これだけ多くの人の手によって記されたものでありながら、驚くべきことに「創世記」~「黙示録」*まで「メシア」という ひとつの主題によって貫かれていることについても触れてきました。
* 「創世記」は旧約聖書の1番はじめの書。一方「ヨハネによる黙示録」は、新約聖書の最後にあたる書です。つまり、新約と旧約を合わせて1冊の書物と捉えるクリスチャンの立場からすると、両書は「聖書のはじめと終わりの書」ということができるわけです。
旧約聖書の中には、やがて来たるべき、このメシアに関する預言が散りばめられているわけですが、
もしこの書物が神の霊感によって記されたものだとするならば、まるで1人の人物が書いたかのように全体の内容が調和し、ひとつの主題によって貫かれていることも別段、不思議なことではありません。
なぜなら、この書物の真の著者は、”身分も時代も違う多くの者たち” ではなく、その背後にいた「神」だということになるからです。
【聖書とは?】メシアなる人物が、なぜそれほど重要なのか?
多くの人が、首を横に振るのではないかと思います。
私たちの大半は、ただ平和に暮らしたいだけなのに、現状に満足できず他国の領土を奪おうとしたり、利益をむさぼるような人々が、いつの時代にも存在してきました。
また、世界には「紛争」や「貧困」「病」や「天災」があり、私たちは生きるために必死の思いで生活費を稼がなくてはなりません。

聖書は「今のような 偽りと不正がのさばる世界は、やがて終わる」と明確に記しています。
そして、この世の悪を一掃し、秩序ある世界を立て直す人物こそが「メシア」なのです。
あなたは、クリスチャンたちがこのようなことを信じているのを知って「おめでたい人たちだ」と笑うかもしれません。
しかし、百歩ゆずって、私たちの信じていることがすべて幻想だったとしても、無神論の中で厭世的に生きるよりは「希望を抱かしめる幻想」を信じて生きるほうが、はるかにマシではないでしょうか?
私たちにとって「メシア」が この上なく重要な人物である理由は、彼が「この悪夢のような世界に終止符を打つ ”希望の存在”」であるからなのです。
【メシアが私たちに遣わされた「目的」に関する預言について……】
『888が意味するものとは?』
聖書とは? | 預言通り到来したメシアを、彼らが見抜けなかった理由



私たちクリスチャンは、約2000年前に登場したイェシュアが、聖書にて予告されてきた「メシア」であったと考えているわけですが、
その理由は単純明快で、「メシア預言」が彼の人生と、ことごとく符合しているからです。
一方、私たちより聖書に精通していたはずのユダヤ人はと言うと、ご承知のように、彼を十字架につけて処刑してしまいました。


しかし、当時の指導者たちや、多くの民衆は「メシア」を見抜くことができなかったのです。
彼らが見誤ってしまった事実を理解するには、もう少し踏み込んで「メシア預言」を見る必要があります。
実は、聖書の中に散りばめられたこの「メシア預言」をピックアップしてみると……、
- 王としての力と栄光に満ちたメシア
- 人々に蔑まれる受難のメシア
という、”まったく相反する2とおりの姿” で登場することが分かります。


それゆえ、民族的指導者として立ち上がる素振りも見せず、無抵抗で捕らえられ、あげくの果てには「十字架刑」という、当時もっとも屈辱的な方法で処刑された彼が、まさかメシアだったとは、ほとんどの人々が気づけなかったのです。

【メシアが人々から嘲笑され、手足を突き刺されるという預言について……】
『イェシュアが十字架上で「詩篇22篇」を叫んだ真の意味とは?』
矛盾する「メシア預言」の謎を解明する鍵とは?
この記事を読んでくださっている方の中には、
「なぁんだ、聖書の預言って矛盾してるのか……」
と思われた方もいるかもしれません。しかし、ここで早合点してしまっては、ユダヤの人々と同じ過ちを犯してしまいます。

「初臨」と「再臨」について知る必要があるんだ。
考えてみてください。仮にメシアが1度しか来ないのであれば、たしかに「メシア預言」は、ちぐはぐの矛盾したものに見えます。
一見、相反するように見える2種類の預言は、それぞれ別々の時期について語ったものだと考えられ、矛盾はなくなります。
実際、聖書の中に「メシアが地上に来るのは1度だけである」といった記述は見当たりません。
加えて、イェシュアが来た際に、すべての預言が成就されたわけではなく、まだかなりの数の預言が、未成就のまま残されているのです。
クリスチャンたちは、彼が1度目に来たときのことを「初臨(しょりん)」、2度目に来るときのことを「再臨(さいりん)」と呼んで区別しています。
物質的な世界の中で日々の生活を送っている私たちからすれば「子供だまし」か「ファンタジー」のように聞こえるかもしれません。
しかし仮に、体ではなく、霊こそが私たちの本体であった場合、2度くるといった話も、100%ありえないとは言い切れないと思います。
なぜなら、その場合この目に見える体は、いわば「入れ物」のようなものにすぎないことになるからです。
今や人類は、一人ひとりの意識を「アバター」に投影させて、仮想空間で暮らすような時代を目指そうとしています。
それはそれで、十分ブッ飛んだ話だと思いますが、技術的には、ある一定のレベルまではいけるわけです。
話が少し逸れましたが、このように、ユダヤの人々が「メシア」の到来を見逃してしまった主な原因は、
メシアに関する預言が時系列的に区別されることなく、バラバラに散りばめられているためなのです。
メシアの到来が、まさか2度にわたるとは思ってもみなかったであろうイスラエルの人々は、
イェシュアが期待していたような王としての力を振るわなかったことから、預言されていたメシアであることに気づけず、偽せ物として彼を拒絶してしまったのでした。
そして興味深いことに「メシアが拒絶されること」も「死ぬこと」も、聖書の中では既に預言されていたのです。
【メシアが死ぬことに関する預言について……】
ユダヤ教の指導者たちを困惑させるメシア預言【イザヤ書53章】
【メシアが拒絶されることなどの預言について……】
【旧約聖書の精髄】旧約内に散りばめられた「救世主」特定の手掛かり
聖書とは? | なぜ、イェシュアがメシアであったと言えるのか?

クリスチャンたちが「イェシュアこそ、預言されていたメシアだ」と考えている理由は、さきほども少し触れたように「メシア預言」が、彼の人生においてことごとく成就しているという事実があるからです。
言い方を変えれば、メシア預言について当てはまるような人物は、歴史上、イェシュアひとりしか存在しないということです。
「まだこれから、同じように預言にピッタリ合致した人物が出てくるかもしれないじゃないか」
と思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、その可能性はありません。

次回の記事にて取り上げますが、預言の中でメシアは、古代ユダ王国の王である”ダビデの家系から出る” と預言されています。

眠れる羊くんの言うとおりです。
つまり、ダビデの家系から生まれたかどうか確認できるのは、”系図が失われる、AD70年以前の人物” に限られる、ということです。
ちなみにイェシュアは「AD70年以前の人物」「ダビデの家系である」という条件をクリアしており、
彼がダビデの家系から生まれたことは、当時、彼に敵対していた「律法学者」や「祭司たち」も、福音書を読む限りでは否定していません。
今、メシアと断定するための条件を2つ挙げましたが、初臨の際に、イェシュアにおいて成就した「メシア預言」は、この他にも数多くあるわけです。


では、そんな眠れる羊くんのために、もう少しイメージしやすいような喩えを下記に引用してみましょう。
もしそれだけの数のドル銀貨を敷き詰めるなら、テキサス州全体(69万平方km = 日本の2倍)が覆われ、その高さは60cmに達するだろう。
その1枚に印を付け、目隠しをした人に州全体を歩き回って銀貨を一つ拾い上げてもらうとしよう。印の付いた銀貨を拾い上げる確率はどれくらいだろうか。
メシアに関するわずか八つの預言が歴史上のある人物に成就する確率は、それと同じである。
「TRUE ARK 聖書の言葉とキリストを伝える総合情報サイト」より引用。
また、数学者のピーター・W・ストーナーによれば、聖書内のメシアに関する預言48がすべて成就する可能性は、なんと1兆の13乗分の1だということです。
この確率を考えただけでも、旧約内に散りばめられた「メシア預言」を、彼がたまたま全て成就した、などということはあり得ないことが分かるかと思います。
そして、歴史上イェシュアのみが、数十ものメシア預言を成就しているのです。

【メシア到来の年代を示した預言について】
『メシア誕生の時期を預言する、ダニエル書70週の預言』
まとめ
- ”時代も身分も違う40人もの人たち” の手で書かれたにも関わらず、聖書の内容に「一貫性」と「調和」が見られるのは、真の著者が彼らの背後にいた神だっだから。
- 「メシア」とは、不正や悪に満ちた世に終止符を打ち、本来の秩序を取り戻してくれる”希望の存在”。
- 聖書に精通していたはずのユダヤ人たちが「到来したメシア」に気づけなかったのは、預言の中のメシアが「王としてのメシア」と「受難のメシア」という2面性を持っていたため。
- 「メシア預言」が矛盾しているように見えるのは、メシアの「初臨」と「再臨」の際の預言が区別されることなく、ランダムに散りばめられているため。
- クリスチャンたちが「イェシュアこそメシアだ」と確信する1つの根拠は、ひとりの人物が数十もの「メシア預言」を成就する確率が、天文学的な数字になるから。
いかがだったでしょうか?
今回は、これから「メシア預言」というものを実際探究していくにあたり、基礎となる部分を見てみました。
クリスチャンたちの聖書を信じる理由が「非論理的な迷信的なものでないこと」が少しでも伝われば幸いです。
次回からは、具体的に「メシア預言」を詳しく見ていきたいと思います。
聖書の預言が、はたして「人の手による でっち上げ」か「神の手による真実の啓示」であるかは、
次回以降の記事で紹介する、もろもろのメシア預言によって、ぜひ、お一人おひとりが自分で判断してみてください。
長い記事を最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

『【驚異】メシア預言とは? メシアの誕生は数千年前から予告されていた』へのリンクは下だよ。
眠れる羊くん この記事の内容の簡略版を、You Tubeで観れるよ♪ https://youtu.be/oamaDRujQTU K ~ 聖書は信じるに値するか? No.7 ~ この[…]

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