洗礼とは? どんな意味があるの? バプテスマという名の「絶縁状」

聖書を紹介する、ユーチューブチャンネルの紹介。


  この記事では……、
「洗礼とは何なのか? その意味と、受洗の方法」
について、お伝えしています。



記事の前半は、洗礼を受けようとされている方向けの内容となっております。「洗礼にはどんな意味があるの?」を、手っ取り早く知りたいだけ、という方は、後半からお読みいただくことを、オススメいたします。


《 後半だけサクッと読む 》


世の中では……、


「アマチュアで百戦錬磨だった彼も、プロの世界で洗礼を受けた


のように、”その人に大きな変化を与える経験” というような意味で「洗礼」という言葉が使われたりします。


おそらく、一般の方にとって、洗礼とは「キリスト教徒になるための儀式」くらいの認識でしょう。

しかし、洗礼とは、たんなる上辺だけの「儀式」ではなく、霊的な「表明」であり、世に対する「絶縁状」とも言えるものなのです。



この記事では、そんな洗礼について、詳しく見てみたいと思います。


それでは、はじめましょう。


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【これだけは知っておきたい】洗礼とは? バプテスマの「意味」と「基本事項」

バプテスマを意味しているかのような、水中の気泡。



洗礼とは、キリスト教において「サクラメント*」の1つとされているものです。


聖書を信じる羊(右向き)K
正直「サクラメント」なんて言葉、憶えなくて大丈夫です。



  *「サクラメント」とは? 
目には見えない「霊的な恵み」を受けることができる行為のこと
プロテスタントでは「聖礼典(せいれいてん)」、カトリックでは「秘蹟(ひせき)」などと呼ばれる。



聖書を信じる羊(右向き)K
まずは、基本的なことがらについて見てみよう。



洗礼(受洗)には「3つの方法」がある!?


居眠りしている羊(右向き)眠れる羊くん
ねぇねぇ「バプテスマ」と「洗礼」って同じ意味??


聖書を信じる羊(左向き)K
うん、同じだよ。ただ、後者は「原語の意味」とだいぶズレてるけれどね。



バプテスマ」とは「洗礼」と日本語に訳された言葉の原語にあたるもので、ギリシャ語で「浸す・沈める」を意味します。

ですので、原語に「洗う」の意味は無く、したがって「洗礼」という言葉は、明らかな誤訳に当たります。



聖書を信じる羊(右向き)K
ちなみに、洗礼を受けることを「受洗(じゅせん)」とも呼んだりするよ。



原語の意味が示すように「洗礼者ヨハネ」や「イェシュアの弟子たち」が、ヨルダン川などで行っていたバプテスマは、体を水に沈める行為であったことが想像できます。


しかし、クリスチャンの中には……、

  • 滴礼(てきれい)
  • 灌水礼(かんすいれい)



と呼ばれる方法をとる方たちもいらっしゃいます。


前者は頭部に水をつける形式を、後者は頭部に水を注ぐ形式をとります。


このことから「洗礼」という語は「滴礼」や「灌水礼」を行う人たちが、自分たちの行為を正当化するため、意図的に誤訳したものだとする意見もあります。


以上のことから、基本的には「バプテスマ」と呼ぶのが無難だと言えるでしょう。



居眠りしている羊(右向き)眠れる羊くん
いろんな「やり方」があるみたいだけど、結局どれが良いの?



全身を水に沈める「浸礼」を含めると……、

  • 浸礼(しんれい)
  • 滴礼(てきれい)
  • 灌水礼(かんすいれい)



という3つの方法があるわけですが、

どれが1番聖書的か?」という観点から言えば、イェシュア自身も受けたであろう「浸礼」ということになるかと思います。



洗礼とは「救いの条件」なのか?



「新約聖書」を読むと……、

  1. 福音を聞く
  2. 信じてメシアを受け入れる
  3. 洗礼を受ける



という「3つのステップ」を踏んでいることが分かります。


また、下の聖句からも分かるように、人は「行い」ではなく「信仰」によって救われるというのが、神による「新しい契約(新約)」の特徴でもあります。


事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。

エフェソの信徒への手紙(新共同訳)


そう、つまり洗礼とは「すでに信じて救われた人が受けるものなのです。



ですから、バプテスマ(洗礼)を受けたら救われる、という考えは「聖書的」とは言えません。



聖書を信じる羊(右向き)K
あくまでも、救いは「信仰(神に対する信頼)」によるんだよ。



また、もし仮に、バプテスマ(洗礼)が「救いの条件」だとすれば、上記の「行いによるのではありません」という聖句と矛盾してしまうことになります。


バプテスマ(洗礼)を行ったから救われる、というものではないのです。



「ハーベスト・タイム・ミニストリーズ」の中川健一氏も、

「人は信仰と恵みによって救われる」というのが、救いに関する真理です。もし、洗礼を受けることが救いの条件であるなら、救いには「人間の業」が必要だ、ということになります。



と述べています。



【洗礼とは何なのか?】バプテスマによる「3つの表明」

「表明」を意味する行為である「洗礼」をイメージした水のクラウン。



まず、水に沈めるという行為は、キリストの「」と「埋葬」を、水中から体を引き起こす行為は、キリストの「復活」を、それぞれ象徴しています。

クリスチャンたちが行う「バプテスマ(洗礼)」は、

異邦人が「ユダヤ教」へ改宗した際に行われた、ユダヤ教の「改宗者のバプテスマ」という古い伝統が元となっているようです。



傍から見れば、ただ水の中に沈むだけの大して意味のない行為に見えますが、霊的には重要な意味を持っています。


居眠りしている羊(右向き)眠れる羊くん
「バプテスマ(洗礼)」は主に、以下の3つのことを表明する行為なんだって!



  1. 古い自分が死んだことの表明
  2. 世に対する「決別」の表明
  3. キリストとの一体化の表明
     = 自分がキリストのものとなったことの表明



聖書を信じる羊(右向き)K
では、それぞれ順番に見ていこう。



洗礼とは「古い自分が死んだことの表明」


これは「アダム系列」であった古い自分がキリストと共に死に、新しく創造された「キリスト系列」の人類として、霊的に新たに生まれたことの表明です。



聖書を信じる羊(右向き)K
「アダム系列」「キリスト系列」って概念が、いまいちピンとこない方は、下の記事を参考にしてみてね。



【合わせて読みたい】
『イェシュア(イエス)が十字架上で死んだことにどんな意味があるのか?』



洗礼とは「世に対する決別の表明」


これは「世に属する者」から「天に属する者」となったことの表明です。



『ルシファーとは? 私たちは、目に見えない世界の敵を知る必要がある』の記事で見たように、世とは「サタン」が支配している領域です。


ですから「サタンに属する者」から「神に属する者」となった、


あるいは「サタンの陣営」から「神の陣営」へと加わった、と言い換えてもいいでしょう。


洗礼とは「キリストとの一体化の表明」


これは、私たちの霊が「キリストの霊」の中にバプテスマされ、霊的に、キリストの体の一部になったことの表明です。


† あなたがたは皆、キリスト・イエスにある信仰によって神の子たちなのです。なぜなら、キリストの中へとバプテスマされた者は皆、キリストを着ているからです。

そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な者もなく、男も女もありません。
あなたがたは皆、キリスト・イエスにあって一つだからです


ガラテヤの信徒への手紙 3:26~28(新共同訳 + K.J.V)



聖書を信じる羊(右向き)K
イェシュアは、このことを「ぶどうの木」にたとえて説明しています。



わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。

(中略)

ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。

わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。


ヨハネによる福音書 15:1 + 4~5(新共同訳)



つまり、キリストが「木」であり、私たちはそれにつながった「枝」ということです。


クリスチャンどうしが、互いのことを「兄弟姉妹」として考えるのは、クリスチャンたちが「キリスト」という、同じ1つの「木」につながった家族のような存在だからです。


また「キリストとの一体化」ということで言えば、

まっさらな生地が「染色液」に浸され、染められるようなイメージを持つと、分かりやすいかもしれません。



居眠りしている羊(右向き)眠れる羊くん
そのイメージからすると、洗礼はやっぱり、全身を水に浸す「浸礼」って形の方が何かよさそうだね。


聖書を信じる羊(左向き)K
「病床に在る」とか「体に障害がある」ような特別な理由がない限り、浸礼がベストかもね。



バプテスマ(洗礼)による3つの表明【まとめ】


  1. 古い自分が死んだことの表明
  2. 世に対する決別の表明
  3. キリストとの一体化の表明
     = 自分がキリストのものとなったことの表明



この3つの表明は、それぞれ別々のことではなく、ある1つの「霊的な大変化」を3つの角度からながめたもの、という感じです。



つまり、バプテスマ(洗礼)を、ひとことで表現するならば……、

世に属していた古い自分が死に、キリストのものとして新しく生まれ変わった」ことの表明だと言えます。



【受洗の方法】バプテスマ(洗礼)を受けるには、どうすれば良いい??

洗礼の意味について教える、水中の男女。



聖書を信じる羊(右向き)K
ふつう、バプテスマ(洗礼)は、教会で「牧師」や「神父」さんに授けてもらうのが、一般的です。



私自身は、教会に所属したことがないため、経験したことがないのですが、その際、だいたい半年ほどの「洗礼準備期間」なるものがあるそうです。


教会によっても違うかと思いますが、その「準備期間」に聖書について学んだり、教会の方と面談をしたりするようです。


そして、洗礼を受けるにふさわしいと認められて初めて、ようやく「洗礼」を受けられる、といった流れになります。


一方で、これは「聖書的なやり方ではない」とする意見もあります



なぜなら、聖書を読むと、ペテロの説教によってイェシュアを受け入れた「3000人の群衆」や、


使徒フィリポに福音を知らされた「エチオピアの高官」は、信じたその日の内にバプテスマ(洗礼)を受けているからです。

「彼らはすでに、聖書に対する予備知識があったから、準備期間が必要なかったんじゃないの?」



と思われるかもしれません。


ただ、現代の私たちが「バプテスマ(洗礼)」を受けようと思うのは、イェシュアをすでに受け入れているからであり、


彼を受け入れているということは、直感的であれ、少なくとも「彼の死と復活」や「彼が私たちのために死なれたこと」など、



最も大切な「核となる知識」をすでに知っていることを意味します。


聖書を信じる羊(右向き)K
その認識なしに救われるということは、あり得ないからね。



つまり「洗礼」を受ける準備は、すでに整っているわけです。



また「神父」や「牧師」さんなど、特定の人でなければ洗礼を授けることはできない、という考えに対しても「聖書的ではない」とする意見があります



なぜなら、聖書を読む限り、そのような発言を、イェシュアはしていないからです。

† イエスは、近寄って来て言われた。

「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。

彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。

わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」


マタイによる福音書 27:18~20(新共同訳)



上の聖句を見ると、イェシュアは「使徒たち」に、”父と子と聖霊の名によって洗礼を授けること” を命じています。


また、弟子とした者たちに対しても、”命じておいたことをすべて守るように教えなさい”、と命じています。


居眠りしている羊(右向き)眠れる羊くん
つまり……「命じておいたこと」の中に「洗礼」も含まれているだろうってこと??



私個人は、神に立ち返り、キリストを信じている人であれば、誰でも「洗礼」を授けることができる、と考えています。


仮に、もし、クリスチャンの中の「選ばれた者」による洗礼しか有効ではないのであれば、そんな重要なことをイェシュアは、”クリスチャンの間で意見が分かれるような、あやふやなまま” にしておいたでしょうか?



「洗礼」は、しかるべき人からを受けるようにと、はっきり命じておいたはずです。


それに、世の人々がそうであるように「選ばれた特定の者」というような上下関係を作ってはいけない、というのがイェシュアの教えでもありました。


† そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。

「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。

しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない

あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。


マタイによる福音書 20:25~27(新共同訳)



† あなたがたは『先生』と呼ばれてはならない。なぜなら、あなたがたの師はキリスト一人だけで、あとは皆兄弟だからです

マタイによる福音書 23:8(K.J.V)



よって、洗礼を受けるには……、

  1. 信頼の置けそうな教会を見つけ、そこで受ける
  2. 身の回りにいるクリスチャンに授けてもらう



の、どちらかということになるかと思います。


ただし、②の場合、そのクリスチャンが「洗礼」について、どのように考えているかによっては、やはり教会で受けるよう、すすめられるかと思います。


また、身の回りにクリスチャンがいない場合もあるでしょう。なんせ日本における「クリスチャン人口」の割合は、全体の1%前後だとされているからです💧


居眠りしている羊(右向き)眠れる羊くん
100人に1人いるか、いないかの割合……💦



そういった場合は、祈りつつ、根気よく①の道を探るというのが、現時点での私の考えです。

いずれにせよ、本当に大切なことは「バプテスマ(洗礼)を、どこで受けるか?」よりも「どのような気持ちで受けるか?」の方だと思います。



神は外側ではなく、その人の「心」を見ておられる方だからです。


イェシュアを受け入れていない人が面白半分で受けたところで、何の意味もないように、彼に対する「深い信頼」を持って受けることが何よりも大切なのです。


まとめ


  • 「洗礼」は誤訳! なので「浸す・沈める」という意味の「バプテスマ」と呼ぶのが無難。

  • 全身を水に沈める「浸礼」が、最も聖書的な形式。

  • バプテスマ(洗礼)とは、すでに救われた人が受けるものであって、洗礼を受けなければ救われない、といったものではない。

  • バプテスマ(洗礼)とは「世のものであった古い自分が死に、キリストのものとして新しく生まれ変わった」ことの表明。

  • バプテスマ(洗礼)を受けるには「教会に所属する」か「周囲のクリスチャンに授けてもらう」かのどちらか。


洗礼を意味しているかのような、水に沈められた聖書。
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『私は良い羊飼いです。私は自分の羊たちを知っており、私の羊たちにも知られています。――また私には、この囲いに属していない他の羊たちもいます。私は、彼らも連れて来なければなりません。彼らは私の声に耳を傾けるでしょう。こうして一つの群れ、一人の羊飼いとなるでしょう』                 John 10:14.16(K.J.V + Nagai)


『あなたがたは、迷い出た羊のようでしたが、今や、羊飼いであり、あなたがたの魂の監督者である方のもとへと帰ってきたのです』
                1 Peter 2:25(K.J.V)

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