
「洗礼とは何なのか? その意味と、受洗の方法」
について、お伝えしています。
世の中では……、
「アマチュアで百戦錬磨だった彼も、プロの世界で洗礼を受けた」
のように、”その人に大きな変化を与える経験” というような意味で「洗礼」という言葉が使われたりします。
おそらく、一般の方にとって、洗礼とは「キリスト教徒になるための儀式」くらいの認識でしょう。
しかし、洗礼とは、たんなる上辺だけの「儀式」ではなく、霊的な「表明」であり、世に対する「絶縁状」とも言えるものなのです。
この記事では、そんな洗礼について、詳しく見てみたいと思います。
それでは、はじめましょう。



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【これだけは知っておきたい】洗礼とは? バプテスマの「意味」と「基本事項」

洗礼とは、キリスト教において「サクラメント*」の1つとされているものです。

目には見えない「霊的な恵み」を受けることができる行為のこと。
プロテスタントでは「聖礼典(せいれいてん)」、カトリックでは「秘蹟(ひせき)」などと呼ばれる。

洗礼(受洗)には「3つの方法」がある!?


「バプテスマ」とは「洗礼」と日本語に訳された言葉の原語にあたるもので、ギリシャ語で「浸す・沈める」を意味します。
ですので、原語に「洗う」の意味は無く、したがって「洗礼」という言葉は、明らかな誤訳に当たります。

原語の意味が示すように「洗礼者ヨハネ」や「イェシュアの弟子たち」が、ヨルダン川などで行っていたバプテスマは、体を水に沈める行為であったことが想像できます。
しかし、クリスチャンの中には……、
- 滴礼(てきれい)
- 灌水礼(かんすいれい)
と呼ばれる方法をとる方たちもいらっしゃいます。
前者は「頭部に水をつける形式」を、後者は「頭部に水を注ぐ形式」をとります。
以上のことから、基本的には「バプテスマ」と呼ぶのが無難だと言えるでしょう。

全身を水に沈める「浸礼」を含めると……、
- 浸礼(しんれい)
- 滴礼(てきれい)
- 灌水礼(かんすいれい)
という3つの方法があるわけですが、
「どれが1番聖書的か?」という観点から言えば、イェシュア自身も受けたであろう「浸礼」ということになるかと思います。
洗礼とは「救いの条件」なのか?
「新約聖書」を読むと……、
- 福音を聞く
- 信じてメシアを受け入れる
- 洗礼を受ける
という「3つのステップ」を踏んでいることが分かります。
また、下の聖句からも分かるように、人は「行い」ではなく「信仰」によって救われるというのが、神による「新しい契約(新約)」の特徴でもあります。
事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。
エフェソの信徒への手紙(新共同訳)
そう、つまり洗礼とは「すでに信じて救われた人」が受けるものなのです。

また、もし仮に、バプテスマ(洗礼)が「救いの条件」だとすれば、上記の「行いによるのではありません」という聖句と矛盾してしまうことになります。
バプテスマ(洗礼)を行ったから救われる、というものではないのです。
「ハーベスト・タイム・ミニストリーズ」の中川健一氏も、
「人は信仰と恵みによって救われる」というのが、救いに関する真理です。もし、洗礼を受けることが救いの条件であるなら、救いには「人間の業」が必要だ、ということになります。
と述べています。
【洗礼とは何なのか?】バプテスマによる「3つの表明」

まず、水に沈めるという行為は、キリストの「死」と「埋葬」を、水中から体を引き起こす行為は、キリストの「復活」を、それぞれ象徴しています。
クリスチャンたちが行う「バプテスマ(洗礼)」は、
異邦人が「ユダヤ教」へ改宗した際に行われた、ユダヤ教の「改宗者のバプテスマ」という古い伝統が元となっているようです。
傍から見れば、ただ水の中に沈むだけの大して意味のない行為に見えますが、霊的には重要な意味を持っています。

- 古い自分が死んだことの表明
- 世に対する「決別」の表明
- キリストとの一体化の表明
= 自分がキリストのものとなったことの表明

洗礼とは「古い自分が死んだことの表明」
これは「アダム系列」であった古い自分がキリストと共に死に、新しく創造された「キリスト系列」の人類として、霊的に新たに生まれたことの表明です。

【合わせて読みたい】
『イェシュア(イエス)が十字架上で死んだことにどんな意味があるのか?』
洗礼とは「世に対する決別の表明」
これは「世に属する者」から「天に属する者」となったことの表明です。
『ルシファーとは? 私たちは、目に見えない世界の敵を知る必要がある』の記事で見たように、世とは「サタン」が支配している領域です。
ですから「サタンに属する者」から「神に属する者」となった、
あるいは「サタンの陣営」から「神の陣営」へと加わった、と言い換えてもいいでしょう。
洗礼とは「キリストとの一体化の表明」
これは、私たちの霊が「キリストの霊」の中にバプテスマされ、霊的に、キリストの体の一部になったことの表明です。
† あなたがたは皆、キリスト・イエスにある信仰によって神の子たちなのです。なぜなら、キリストの中へとバプテスマされた者は皆、キリストを着ているからです。
そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な者もなく、男も女もありません。
あなたがたは皆、キリスト・イエスにあって一つだからです。
ガラテヤの信徒への手紙 3:26~28(新共同訳 + K.J.V)

わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。
(中略)
ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。
わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。
ヨハネによる福音書 15:1 + 4~5(新共同訳)
つまり、キリストが「木」であり、私たちはそれにつながった「枝」ということです。
クリスチャンどうしが、互いのことを「兄弟姉妹」として考えるのは、クリスチャンたちが「キリスト」という、同じ1つの「木」につながった家族のような存在だからです。
また「キリストとの一体化」ということで言えば、
まっさらな生地が「染色液」に浸され、染められるようなイメージを持つと、分かりやすいかもしれません。


バプテスマ(洗礼)による3つの表明【まとめ】
- 古い自分が死んだことの表明
- 世に対する決別の表明
- キリストとの一体化の表明
= 自分がキリストのものとなったことの表明
つまり、バプテスマ(洗礼)を、ひとことで表現するならば……、
「世に属していた古い自分が死に、キリストのものとして新しく生まれ変わった」ことの表明だと言えます。
【受洗の方法】バプテスマ(洗礼)を受けるには、どうすれば良いい??


私自身は、教会に所属したことがないため、経験したことがないのですが、その際、だいたい半年ほどの「洗礼準備期間」なるものがあるそうです。
教会によっても違うかと思いますが、その「準備期間」に聖書について学んだり、教会の方と面談をしたりするようです。
そして、洗礼を受けるにふさわしいと認められて初めて、ようやく「洗礼」を受けられる、といった流れになります。
なぜなら、聖書を読むと、ペテロの説教によってイェシュアを受け入れた「3000人の群衆」や、
使徒フィリポに福音を知らされた「エチオピアの高官」は、信じたその日の内にバプテスマ(洗礼)を受けているからです。
「彼らはすでに、聖書に対する予備知識があったから、準備期間が必要なかったんじゃないの?」
と思われるかもしれません。
ただ、現代の私たちが「バプテスマ(洗礼)」を受けようと思うのは、イェシュアをすでに受け入れているからであり、
彼を受け入れているということは、直感的であれ、少なくとも「彼の死と復活」や「彼が私たちのために死なれたこと」など、
最も大切な「核となる知識」をすでに知っていることを意味します。

つまり「洗礼」を受ける準備は、すでに整っているわけです。
なぜなら、聖書を読む限り、そのような発言を、イェシュアはしていないからです。
† イエスは、近寄って来て言われた。
「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。
彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。
わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」
マタイによる福音書 27:18~20(新共同訳)
上の聖句を見ると、イェシュアは「使徒たち」に、”父と子と聖霊の名によって洗礼を授けること” を命じています。
また、弟子とした者たちに対しても、”命じておいたことをすべて守るように教えなさい”、と命じています。

私個人は、神に立ち返り、キリストを信じている人であれば、誰でも「洗礼」を授けることができる、と考えています。
「洗礼」は、しかるべき人からを受けるようにと、はっきり命じておいたはずです。
それに、世の人々がそうであるように「選ばれた特定の者」というような上下関係を作ってはいけない、というのがイェシュアの教えでもありました。
† そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。
「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。
しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。
あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。
マタイによる福音書 20:25~27(新共同訳)
† あなたがたは『先生』と呼ばれてはならない。なぜなら、あなたがたの師はキリスト一人だけで、あとは皆兄弟だからです。
マタイによる福音書 23:8(K.J.V)
よって、洗礼を受けるには……、
- 信頼の置けそうな教会を見つけ、そこで受ける。
- 身の回りにいるクリスチャンに授けてもらう。
の、どちらかということになるかと思います。
ただし、②の場合、そのクリスチャンが「洗礼」について、どのように考えているかによっては、やはり教会で受けるよう、すすめられるかと思います。
また、身の回りにクリスチャンがいない場合もあるでしょう。なんせ日本における「クリスチャン人口」の割合は、全体の1%前後だとされているからです💧

そういった場合は、祈りつつ、根気よく①の道を探るというのが、現時点での私の考えです。
いずれにせよ、本当に大切なことは「バプテスマ(洗礼)を、どこで受けるか?」よりも「どのような気持ちで受けるか?」の方だと思います。
神は外側ではなく、その人の「心」を見ておられる方だからです。
イェシュアを受け入れていない人が面白半分で受けたところで、何の意味もないように、彼に対する「深い信頼」を持って受けることが何よりも大切なのです。
まとめ
- 「洗礼」は誤訳! なので「浸す・沈める」という意味の「バプテスマ」と呼ぶのが無難。
- 全身を水に沈める「浸礼」が、最も聖書的な形式。
- バプテスマ(洗礼)とは、すでに救われた人が受けるものであって、洗礼を受けなければ救われない、といったものではない。
- バプテスマ(洗礼)とは「世のものであった古い自分が死に、キリストのものとして新しく生まれ変わった」ことの表明。
- バプテスマ(洗礼)を受けるには「教会に所属する」か「周囲のクリスチャンに授けてもらう」かのどちらか。