

~ 聖書は信じるに値するか? No.13 ~
「かつて仏教徒であった私が、聖書と神を信じる理由」
について、お伝えしています。
そう、私はもともと仏教徒でした。
キリスト教なんて海外のもので、自分とは何の関係もないものとして、歯牙にもかけませんでした。
ただ、仏教徒とは言っても、自らの意思でそうなったのではなく、そのような家庭で育ったため、自然的な流れでそうなったにすぎませんが、
それでも、まさか自分が将来クリスチャンになるだなんて、1㎜も思っていませんでした。
そこで今回は「真理探究の旅」の休憩がてら、私が聖書と神を信じている根拠について、お話してみようと思います。
【安息の露原 ― ansoku no tsuyuhara ― 】
テントの外では朝日を宿した白露(しらつゆ)が、辺り一面、ガラス玉のように草原(くさはら)で輝いています。
「メシア預言の森」を無事抜け出した安堵感から、昨晩は、さぞ、ぐっすりと眠れたことでしょう。
朝露に濡れてしまわぬよう、出発は、日がもう少し高く昇ってからの方が良さそうです。
それまでは準備でもしながら、のんびりと、この不可思議な「聖書の世界」について、若干、私が思うところをお話ししてみましょう。



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私が聖書と神を信じる「4つの主な理由」

私は、聖書の記述を「盲目的」あるいは「狂信的」に信じているのではありません。
もともと、どちらかと言うと理屈っぽい性格なので、自分の納得できないことや理屈に合わないようなことを、たやすく信じるタイプの人間ではありません。
そんな私が、それでも「聖書」と「神」、そして「イェシュア」を信じている理由を、順に説明してみようと思います。
【神と聖書を信じる理由①】使徒たちが嘘の証言の為に死んだとは考えにくい
現在、イェシュアが「メシア」だと信じているユダヤ人たちのことを、
「メシアニック・ジュー」
と呼ぶことについては、以前にもチラッとお話しましたが、約2000年前のユダヤ人たちの中にも、彼を「メシア」だと信じた者たちがいました。
その中の、中心的な12人の弟子たちのことを「12使徒」と呼んでいます。
「12使徒(しと)」の1人であった「イスカリオテのユダ」は、イェシュアを裏切った後、首を吊って死んでしまったので、十字架刑の直後は、11人の使徒たちがいました。
彼らは「メシア」と仰いでいた自分たちの師が、磔(はりつけ)にされたあと、死をも恐れず、雄々しくユダヤ教の指導者たちに立ち向かい、イェシュアのことを証言し……
と思いきや、実際は、むしろそれとは真逆の行動に出ました。
しかもこれは、使徒の筆頭格である「ペテロ」と「ヨハネ」が、イェシュアの遺体が無くなっているのを自分たちの目で確認し、
「マグダラのマリア」という女弟子から、”復活したイェシュアをこの目で見た”、という話を伝え聞いた後のことです。
「ペテロ」と「ヨハネ」以外の使徒たちに至っては、”遺体が無くなっており、イェシュアが復活した”という女弟子たちの報告を「たわごと」だとして信じず、確かめに行こうとすらしませんでした。
〈 参照:ルカによる福音書 24:9~12 〉
実を言うと弟子たちは、生前、イェシュアから「人の子(イェシュア自身のこと)は必ず殺されるが、3日目に復活することになっている」という主旨のことを、複数回、聞かされていました。
しかし、福音書の記述からは、イェシュアの死後、彼らが「師の復活」など信じていなかったことは明白です。
おそらく彼らは、イェシュアの死の直後から、自分たちも同じような目に会うのではないかと恐れ、ビクビクしながら身を潜めていたのでしょう。

私はそんな彼らに、親近感をおぼえます。人間臭いと言うか何と言うか、そもそもそれが普通の反応だと思うからです。
いったい誰が、死んだ人間の復活など信じられるでしょう?
このように彼らは、けっして、”心臓に毛の生えたような勇敢な者たち” でも、”現実と妄想の区別がつかない狂信家たち” でもありませんでした。
ところが、です。
そして、11人中、10人までもが、実際にその証言のために殺されているのです。
「トマス」と呼ばれる使徒などは、インドにまでイェシュアのことを伝えに行っており、その地で殉教(命を落とすこと)したと伝えられています。

・「小乗仏教」…… 出家し、修行をして悟りを得た、ごく一部の者だけが救われるのだとする考え。
・「大乗仏教」…… 出家した一部の者たちだけでなく、すべての人が救われるのだとする考え。
トマスは、他の使徒たちに「私たちは(復活した)主を見た」と聞かされた時、
†「あの方の両手に釘の跡を見、この指を釘跡の中へ入れ、また、私の手をあの方の脇腹へと突っ込んでみなければ、私は信じない」
ヨハネによる福音書 20:25
とまで言った人物です。
彼らの、このような突然の変化(しかも180°の方向転換)を論理的に説明するには、彼らが実際に「復活したイェシュア」を見たと考えるのが、最も理にかなっていると言われているのですが、やはり私も、そのように感じます。
しかし、考えてみてください。
命を捨ててまで「偽りの証言」をすることで、彼らに一体どんなメリットがあったというのでしょうか?
ふつう、人は、ウソのために死ねるものではありません。

使徒詐欺師説はまったくばかげている。この説をとことんまで突きつめてみたまえ。これら十二人*の男たちが、イエス・キリストの死後あつまって、彼が復活したと言いふらす陰謀を企んでいるさまを想像してみたまえ。
彼らはそのことで、すべての権力者たちに刃向かうことになる。
人の心は驚くほど軽薄で変わりやすく、うまい話や金銭につられるものだ。彼らのうちの誰か一人でも、そんな誘惑に負けて、いやそれ以上に、牢獄や拷問さらには死刑の脅しに負けて、前言を撤回していたら、彼らは破滅していたのだ。このことを突きつめてみたまえ。
「パンセ 上巻」 ブレーズ・パスカル 岩波書店

このように私には、使徒たちが「ウソの証言」のために死んだとは、どうしても思えないのです。
【神と聖書を信じる理由②】”預言成就=偶然・でっち上げ説”には無理がある
「預言」に関しての説明は『預言とは何なのか? | 人類に突きつけられた神からの挑戦状』の記事で詳しくあつかったので、ここでは割愛しますが、
この「預言」こそ、誰も反論できないよう、神が私たちに突きつけている「疑いもない証拠」であると、私は考えています。

「預言」と、ひとことで言っても、聖書の中には様々なものが散りばめられているのですが、注目すべきは、
- 古代イスラエルが分裂する預言(B.C 930年頃に成就)
- 分裂後の北イスラエルが滅ぼされる預言(B.C 722年に成就)
- 南ユダ王国も侵略され捕囚されるが、その期間が70年であるという預言
- イスラエルが再建される預言(A.D 1948年に成就)
- 受難するメシアについての数々の預言(イェシュアの生涯において成就)
などの、”すでに成就した預言” です。

過去において、数々の「預言」が的中してきたのであれば、未来に関する「預言」も的中する可能性は大いにある、と考えるのが自然であると私は思います。
「聖書預言」に関しては、これまで「捏造」や「こじつけ」などとして様々に批判されてきましたが、”メシア預言シリーズ” で見てきたように、それだけでは説明のつかないものが多々存在します。
これらは、1人ひとりが自分で確認し、判断できる、ある種の「証拠」です。
以上のように、聖書という書物の中に神が残したこの「証拠」は、信頼に値するもの――、少なくとも注目に値するものであると、私は思うわけです。
【神と聖書を信じる理由③】イェシュアが嘘をついているようには思えない
学生のころの私は、時おり、歴史物の本を読むていどで、とりわけ読書好きというわけでもありませんでした。
しかし、21歳になったころ、ある会社での研修がきっかけで「成功哲学」に対する非常な興味を抱くようになった私は、
ナポレオン・ヒルの「思考は現実化する」という本を皮切りに、さまざまなジャンルの本を読むようになります。
そして、その中の1冊として「新約聖書」も読んでいました(クリスチャンになる、10年以上前)。
当時は「世界1読まれてる本ってくらいだから、取りあえず読んどくか」ていどの感覚で読んだわけですが、そのときに感じた印象は……、
- 意外にも、イェシュアって人は誠実で、信頼できそうな人だな。
- 聖書の教えって、なんか品格があるというか、高貴さを感じるなぁ。
- ってか、わけの分からんところが、メチャあるな……。
- ん~、正直「福音書」以外は、つまらん……。
といったものでした。
特に、最も強く印象に残ったのは、1番はじめに挙げた、”イェシュアに対する印象” です。
おそらく、福音書を読んだ多くの方が、私と似たような印象を持つのではないかと思います。
少なくとも「コイツは信用の置けない、根っからの悪人だ」という印象を受ける人は、かなり稀だと思われます。
- 実直(誠実で正直なこと)
- 無邪気(悪い心がまるで無いこと)
- 高潔(精神が気高く、心がけがれていないこと)
こういった類の性質は、その人からにじみ出るというか、隠しきれない「人格の香り」のようなものとして、その人のまとう雰囲気から、それとなく感じられるものです。
持たざる者も、一時的に装うことはできるかもしれませんが、どこかでボロが出るものですし、そういった猿芝居を、人は本能的に見抜くものです。
これは飽くまでも私の主観ですが、福音書から受けるイェシュアの印象とは、そのような人たちに対するそれと似たようなところがあります。
たしかに、世の中の常識に照らし合わせ、客観的に見た場合「福音書」の中で彼が語っていることは、”かなりブッ飛んだ内容” です。
もし、彼の言っていることが真実ではないとすれば、彼は「ペテン師」か、精神に何らかの問題があり、現実と妄想の区別がつかないような状態にあったかのどちらかでしょう。
しかし、仮に彼が「ペテン師」だったとして、約2000年近くにもわたって、国も人種も違う、数え切れないほどの人々をだまし続けてくることなど、ほんとうに可能なことでしょうか?
私には、そうは思われません。
そして、私自身も「福音書」を実際に読んだ限り、彼が後者に当たるとはどうしても思えないのです。
さらに「福音書」を読んでみると、”彼が旧約聖書の内容を、みじんも疑うことなく信じていたこと” が分かります。
彼は「弟子たち」や「民衆」に対し、旧約聖書内の「預言」を事あるごとに引用しており、また、旧約内に記された様々な出来事を「神話や伝説の類」としてではなく「史実」として語っているのです。
「この人が信じているなら……」という思いが、私の「聖書(旧約)」に対する信頼を、力強くバックアップしている1つの大きな要素だと言えます。
【神と聖書を信じる理由④】「死」≠「無」ならば、神の存在は十分ありうる
人は死んだら、どうなるのでしょうか?
それは、誰にも分かりません。
しかし、誰もが必ず経験することなので、いつの日か、その答えが分かります。
おそらく、かなり多くの人たちが、いわゆる「天国」的な場所があるのではないかと、漠然とではあっても考えているのではないかと思います。
”火のないところに煙は立たない” と言いますが、やはり「霊的な存在」があるからこそ、そのような話題が各所に見られるのだと、私は思っています。

私はこれまで「自分の人生は呪われているんじゃないか?」と思いたくなるような道を、歩んできました。
私には、俗に言う「霊感」のようなものは皆無ですが、
何か「悪い霊的な存在」に邪魔されているような、あるいは攻撃を受けているような、そんな感覚をたびたび受けてきたのです。
「たんなる思い込みだよ」と言われれば、そうなのかもしれません。
誰の人生にだって「辛いこと」はありますし、ただの「妄想」「理由づけ」の類にすぎないと、私も客観的には思います。
ただ「そんなふうに感じる」というだけのことであって、何のエビデンスもありません。
そうであるならば、私たちの社会に、
- 殺人者
- 強盗
- 詐欺師
- 強姦魔
といった ”たちの悪い人々” がいるように、霊的な世界においても「私たちの足を引っ張り」「神に対する信頼を失わせ」「人生を破綻させ」「自殺に追い込む」ような、
”悪しき霊的な存在” がいると考えるのは、けっして突拍子もない話ではないと思います。
そして「悪い霊たち」がいるならば「善なる霊たち」もいるはずです。
つまるところ、「そのような霊たちがいるなら、神と呼ばれるような存在があってもおかしくないのでは?」というのが、私の考えです。
私たちの人生は、”死後の世界が存在するかどうか”、そして、”神がいると考えるかどうか ” によって、その生き方が大きく左右されます。
しかし、世の中を見渡すと「そんな問題考えるだけ無駄」と言わんばかりに、いえ、それどころか、そんな問題、はじめから存在しないかのように、
- 享楽的
- 利己的
- 刹那的
に生きている人たちが、多いように思われます。
この記事を読んで下さっているあなたには、そうであってほしくありません。
この問題を棚上げにするということは、あなたも必ず通過しなければならない「死の門」の先に広がる「無限の時」を棒に振ってしまうという、取り返しのつかない、多大なリスクをはらんでいるのですから……。
まとめ
- 怯えていた使徒たちが「ある日」を境に、証言をしはじめた事実を説明するには、彼らが実際に「復活したイェシュア」を見たと考えるのが、最も理にかなっている。
- 命を捨ててまで「偽りの証言」をしてみた所で、使徒たちには何のメリットもなかった。ふつう、人は「ウソ」のために死ねるものではない。
- これまで「預言」が的中してきたのなら、未来に関する「預言」も的中する可能性は大いにある、と考えるのが自然。預言には「捏造」「こじつけ」などでは説明のつかないものが多く存在する。
- イェシュアの言葉が真実でないとすれば、彼は「ペテン師」か「精神的な異常を抱えていた」かである。しかし「福音書」から漂う、彼の誠実で高貴な香りからは、そのどちらの可能性も感じられない。
- 「死後の世界」があるとすれば「霊」も存在するはずであり、善悪両方の霊たちがいると考えられる。このような「霊的存在」がいるならば、神と呼ばれる中心的な霊がいると考えるのは、それほど突拍子もない考えだとは言えない。
いかがだったでしょうか?
今回は「メシア預言の森」から抜け出したあとの休憩がてら、”宗教嫌いの私が「聖書」と「神」を信じる理由” と題して、お話してみました。
次回からは、聖書という書物についての考察をさらに深めるべく「神の言葉の平原」を旅してみましょう。
長い記事を最後まで読んでくださり、ありがとうございました!

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