【7つの特徴】イエス・キリストって、ぶっちゃけ、どんな人??

居眠りしている羊(右向き)眠れる羊くん
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あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、
まず、この女に石を投げなさい。

ヨハネによる福音書 8:7(新共同訳)


聖書を信じる羊(右向き)
【真理探究の旅】
~ ちょこっと休憩 ~


 この記事では…… 、
「イエス・キリスト(イェシュア)とは、どんな人物なのか?」
について、お伝えしています。


約2000年もの歴史を通して、最も有名な人物のひとり、とも言える彼ですが、その人物像を詳しく知る方は、意外と少ないのではないでしょうか?

この記事をご覧くだされば、聖書を読んだことがない方でも、彼が実際、どんな人物だったのか?


そして、世界中の何十億というクリスチャンたちが、いえ、さらに言えば、全時代の数えきれないほどの人々が、


なぜ、イエス・キリストという人物に惹きつけられ、魅了されてきたのかが分かりますので、どうぞ最後まで御覧になってみて下さい♪

イエス・キリストの7つの特徴

イエス・キリストについて記した福音書。



皆さまの中には、およそ2000年も前の人物について、いったいどうやって詳しく知るのかと、疑問に思われる方もいらっしゃるかもしれません。


しかも、長い歴史を通して、これほど名が知れ渡っているにも関わらず、実は彼が活動したのは、わずか、3年から4年の間にすぎないのです。

しかし彼の活動は、4つの福音書という形で、かなり詳しく記録されているため、それを元に、彼の人物像を浮き彫りにさせることは、十分に可能なことなのです。

ではまず、おぼろげながらも、彼のその輪郭を掴むため、その容姿や、肉体的な面について見てみることにしましょう。


【特徴①】良く通る声を持った「体格の良いユダヤ人」


イエス・キリストは、セム族に分類される、れっきとしたユダヤ人でした。
中東や、その周辺地域に分布するセム族の特徴として……、

  • 黄褐色の肌
  • 黒色の波状毛
  • 筋の通った直状の鼻


という特徴が挙げられますから、イエス・キリストも、そうした身体的特徴を持っていた可能性が高いと言えます。

ちなみに、以前の旅で、タルムード内の記述から、彼が独特の容姿をしていたかもしれないことをお伝えしましたが、興味のある方は、そちらもご覧になってみて下さい。

参考:「聖書なんて作り話でしょ?」って思った時に観てみる動画



人によっては、ユダヤ人の特徴として、鉤型に湾曲した大きな鼻を思い浮かべる方もいらっしゃるかもしれませんが、必ずしもそうではなく、


これは中世末期以降、反ユダヤ主義の影響で植え付けられたものだとも言われています。

ユダヤ教のラビたち


彼の身長がどれくらいだったかは分かりませんが、比較的、がっしりした体格であっただろうことは、想像できます。

少なくとも、ヒョロっとした、弱々しい体型ではなかったはずです。


なぜなら、彼の職業は大工であり、十代の半ばから父親の仕事を手伝っていたと仮定すると、15年以上もの間、肉体を使う仕事に従事していたことになるからです。

大工ですから、木材を運んだり、のこぎりを引いたり、釘を打ち付けたりといったことを、日常的に行っていたことでしょう。


数十年もそういった仕事をしていると、特定の筋肉が鍛えられ、体型がガッシリとしてくるのです。

さらに彼は、よく通る、張りのある声をしていたと考えられます。


メシアと噂される彼の姿を一目見ようと、たいてい彼の周りには大勢の人々が集まり、


ある場面では群衆を避けるため、舟を陸から少し漕ぎ出させ、そこから、岸辺にいる群衆へ向けて語ったりもしているからです。



拡声器のある時代ではありませんから、多くの民衆に対して、メッセージを届けるだけの声量があったであろうことは、想像に難くありません。

以上のことから彼は、線の細い柔弱なタイプや、インテリ風の華奢なタイプではなく、


どちらかというとガテン系で、黄褐色の肌と黒髪を持った、しっかりした体格の、気力に満ちた人物であったと考えられます。


【特徴②】誰もが羨む「鋼のメンタル」


ここで私は「鋼のメンタル」と題しましたが、彼のこのようなメンタルを支えていたのは「神を信頼する力」でした。


ですから、この2つ目の特徴には「精神的な強さ」と「信仰の篤さ」という、2つの力を含んでいる、というふうにご理解いただけますと幸いです。


彼のメンタルの強さを物語る逸話として、波に呑まれるほどの嵐の船上でも、彼は爆睡していた、ということが挙げられます。


『マルコによる福音書』には、激しい突風によって、舟は波をかぶって水浸しになるほどであったとしており、乗船していた弟子たちが、

私たちが溺れても構わないのですか!!


と、船尾の方で枕をして眠っていたイエス・キリストを、慌てて起こしに行った様子などが記録されています。

また、別の箇所では、重い十字架を背負わされ、朦朧(もうろう)とした意識のイエスを見て、嘆き悲しむ婦人たちに対し、


私のために泣いてはいけない。むしろ自分と、自分の子供達のために泣きなさい


と、婦人たちのことを気遣っているシーンがあります。

なぜなら、神殿とともにエルサレムが破壊されることを、彼は既に知っており、弟子たちにもそのことを語っていたからです。

最も残酷な処刑法のひとつとも言われる、十字架刑を目前にした時に、なおも他人のことを気遣う心、これこそ、鋼のメンタルというべきではないかと、私は思うのです。

イエスの預言通り、崩壊した神殿。

彼の死から数十年後、実際に神殿は破壊された


その一方で彼は、人として地上を歩んだので、私たちと同じように、人間的な弱さをあわせ持った人物でもありました。


それは、十字架につけられる前夜、血のような汗を流して神に祈っていたことからも分かります。


ゲッセマネにおける記述からも分かるように、彼は明らかに恐れの感情を持っていましたし、できることならば、十字架につけられることを避けたい、という思いを抱いていました。

参照:マルコ 14:32~36



彼は、感覚のマヒした狂人でも、何らかの超自然的な力を用いて、痛みを感じない状態にしていたわけでもなく、私たちと同じように、人間的な弱さを持ち合わせていたのです。

実際の十字架刑の生々しい様子や、血のような汗を流すことが、医学的にありえることなどについては『十字架刑とイェシュアの死因について | 彼は、本当に死んだのか?』で詳しく解説しましたが、


彼はその想像を絶する恐怖を押しのけ、神の御心に従う道を選びました。

真の強さとは、恐れの感覚が麻痺しているのではなく、その感覚を持ちながらも、神に対して、絶対的な信頼を持ち続けることなのかもしれません。


このように彼は、神の御心を汲んで、すべてを引き受ける覚悟をしたということが、聖書からは読み取れます。

この点こそ、彼が真の意味で強い精神力、つまり、鋼のメンタルを有していたと私が考える所以であり、その強さは、彼の神に対する信仰心が土台となっていたのです。


【特徴③】気高さを感じさせる「優しさ」


イエス・キリストは40日間の断食を行うといった、かなりストイックなこともしていますが、決して、気難しく、近寄りがたい修行僧のような人物ではありませんでした。

そうではなく彼は、子どもたちが弟子たちに阻まれ、自分に近づけないでいるのに気づくと、すぐさま自分のもとへと招き寄せ、子どもたちを抱き上げて、祝福するような人物でした。

子どもを庇う、イエス・キリスト。



また、周囲から白い目で見られようと、娼婦や取税人といった、当時、同胞たちから見下され、軽蔑されていた人々とも、親しい友のように食事をともにし、


金持ちや権威のある者たちよりも、むしろ、貧しい人たちとの関係を重んじました。


さらに彼は、天から授かった不思議な力を用いて、耳の聞こえない人たちや、目の不自由な人たちを助け、多くの人々の病を癒したことが記録されています。

ただで受けたのだから、ただで与えなさい、


と弟子たちに教えた通り、彼自身もまた、その力を無償で人々のために用いたことは、言うまでもありません。



彼の優しさを物語るエピソードとして、ヨハネによる福音書には、十字架上のイエス・キリストと、弟子の1人であったヨハネとの、次のようなやり取りが記録されています。

イエスの十字架のそばには、その母と母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアとが立っていた。

イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」と言われた。


それから弟子に言われた。
「見なさい。あなたの母です。」
そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った。


ヨハネ19:25~27(新共同訳)



ここに登場する、愛する弟子とは、使徒ヨハネのことを指しています。


使徒ヨハネや、複数の女性たちとともに、母であるマリアも、十字架につけられたイエス・キリストのそばにいたわけです。


十字架に磔(はりつけ)にされる我が子を見る母の心情とは、いったいどのようなものだったでしょうか。

イエス・キリストはここで、母に対して「婦人と呼びかけています。


日本語で読むと、彼の母に対する態度が、なんとなく、よそよそしい感じがするかもしれませんが、


この「婦人」と訳されている「グネイ」というギリシャ語の単語は、呼びかけの形で用いられる場合、

  • 親切
  • 好意
  • 敬意


が込められている言葉なのだそうです。

つまり、ここでイエス・キリストは、自分をこれまで大切に育ててくれた、母マリアに対し「優しさ」や「尊敬」の思いを込めて呼びかけているのです。



この時すでに、マリアは夫ヨセフに先立たれており、未亡人の身となっていました。

聖書を読む、幼いイエス・キリストと母マリア。

夫を失ったマリアにとってイエスは、心の支えでもあった



さらに息子を失うことで、心の内に生じてしまうであろう空白を、わずかでも埋めてあげようと、イエス・キリストは母に対し、


愛する母よ、これからはヨハネが、あなたの子としてそばにいてくれますよ


と、優しく言葉をかけたのでした。

そして、自分自身もいなくなったあとの母マリアを思い、十字架上から弟子のヨハネに対し、


ヨハネ、大切な母をお前に託すからな。あとは頼むぞ


と、語りかけたわけです。



磔(はりつけ)にされると、呼吸をすることが、大変困難な状態になります。

ですから彼は、私たちには想像し難い、激しい痛みと息苦しさの中、それでも母に対する思いやりを、失っていなかったのです。

 

十字架にかけられたイエス・キリスト。


私は、彼のように苦しみの中にあっても尚、平時のときと同じように、温かい心を保てる人物こそが、本当に優しい人間なのではないかと思うのです。


【特徴④】悪意ある者を沈黙させる「鋭い機転」


聖書に馴染みのない方の中には、イエス・キリストという人物は、精神に何らかの異常をきたしていたのではないか? と思われている方も、いらっしゃるかもしれません。


実際、当時の人々の間にも、そのように考えた者たちが、多くいたようです。
たとえば福音書の中には、次のようなやり取りが記録されています。

多くのユダヤ人は言った。
「彼は悪霊に取りつかれて、気が変になっている。
なぜ、あなたたちは彼の言うことに耳を貸すのか。」


ほかの者たちは言った。
「悪霊に取りつかれた者は、こういうことは言えない。
悪霊に盲人の目が開けられようか。」


ヨハネ 10:20~21(新共同訳)



また、彼の身内でさえ、はじめの内は、イエスがどうかしてしまったのではないかと疑っている様子が読み取れます。

イエスが家に帰られると、群衆がまた集まって来て、一同は食事をする暇もないほどであった。

身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。
「あの男は気が変になっている」と言われていたからである。


マルコ 3:20~21(新共同訳)


このあとの節を読むと、この「身内」とは、彼の母と兄弟たちであることが分かります。


このように、彼の家族でさえ、その精神状態を疑ったくらいですから、後世の私たちが、彼のことを、ちょっと頭のネジが外れた人物だと考えてしまうのは、無理もないことでしょう。

イエス・キリストの横顔。


たしかに、ある部分だけを切り取って考える時、

この人、大分ブッ飛んだ人だな……。


という印象を受けることは否めません。


しかし、全体としてみた場合、頭のネジが外れているどころか、機転の利く、頭脳明晰な人物であることは明白です。

彼は12歳のころには既に、ユダヤ教の神殿にいた学者たちと語り合い、その聡明な受け答えに、学者たちが驚いている様子が記されていますし、


成人した後も、やはりユダヤ教の指導者たちが、大工の子に過ぎない、彼のその知識量に驚いたり、やり込められ、何も言い返せないでいるような場面が記録されてもいます。

学者たちと話す、幼きイエス・キリスト。


つぎにご紹介するエピソードからは、そんな彼の聡明さを垣間見ることが出来ます。

ある朝、イエス・キリストが神殿の境内で民衆たちに教えていると、ユダヤ教の指導者たちが、姦通(かんつう)の現場で捕らえられた女を連れてきて、真ん中に立たせ、彼に言いました。

先生、この女は姦通*をしているときに捕まりました。
こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。
ところで、あなたはどうお考えになりますか。


* 姦通…… 道徳に反する形で男女が肉体的な関係を持つこと。


ヨハネ 8:4~5(新共同訳)


ユダヤ教の指導者たちの多くは、イエス・キリストのことを激しく嫌い、亡き者にしたいと考えていました。


ここで彼らは「先生」と呼びかけていますが、これはイエスのことを尊敬していたからではありません。


わざと下手に出て教えを請う体を装い、彼の言葉尻を捕らえて訴える口実を得ようと、ハイエナのようにスキをうかがっているのです。


要するに、彼らはこの場面において、イエス・キリストのことを罠にはめようとしているわけです。


なぜなら、仮にイエスがこの女性を助けようとして、石打ちの刑を禁じたならば、当然、モーセ律法を破ったとして訴えることが出来ますし、


反対に、石打ちの刑に処すことを命じたとしても、今度は、ローマ帝国の権威に背いたとして、やはり彼のことを、ローマ皇帝に訴えることができたからです。


当時、ユダヤはローマ帝国の属州であった為、ローマから死刑にする権限を剥奪(はくだつ)されていました。
 

要するに、彼らはこの場面において、イエスのことを罠にはめようとしているわけです。


そして、しつこく問いかけてくる彼らに対して、イエス・キリストが命じたことが、冒頭でご紹介した言葉です。

あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、
まず、この女に石を投げなさい

ヨハネ 8:7(新共同訳)


彼は鋭い洞察で、その悪質な企みを瞬時に見抜き、石打の刑にせよとも、それを禁じるということもしませんでした。


その代わりに彼は、宗教指導者たち自身の「傲(おご)り」と「盲目」に、目を向けさせたのです。


私は、イエス・キリストが精神に異常を来していたとは思えません。
皆さまは、どうお感じになられるでしょうか?

これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。
イエスは、身を起こして言われた。


「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」


女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。
「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」


ヨハネ 8:9~11(新共同訳)


後半へ続く。

威厳に満ちた、イエス・キリスト。
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『私は良い羊飼いです。私は自分の羊たちを知っており、私の羊たちにも知られています。――また私には、この囲いに属していない他の羊たちもいます。私は、彼らも連れて来なければなりません。彼らは私の声に耳を傾けるでしょう。こうして一つの群れ、一人の羊飼いとなるでしょう』                 John 10:14.16(K.J.V + Nagai)


『あなたがたは、迷い出た羊のようでしたが、今や、羊飼いであり、あなたがたの魂の監督者である方のもとへと帰ってきたのです』
                1 Peter 2:25(K.J.V)

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