

この記事では、
「おもに、出生に関するメシア預言」についてお伝えしています。
旧約聖書内には、数多くの「メシア預言」が散りばめられていますが、まずは手はじめに「メシアの出生」に関する預言を、いくつか見ていきたいと思います。
ウダウダ言うより、実際に預言に触れた方が早いかと思いますので、さっそく出発しましょう。
さあ、私たちは今、船を離れ、謎めいた「聖書の世界」の奥深くへと通じる、奇妙な大陸へと、足を踏み入れました。
目の前には、うっすらと霧がかった森が広がり、まるでビルのような、見たこともない巨木の数々が、天を支える柱のごとく、静かにたたずんでいます。
はぐれないよう、私に付いてきてくださいね。
では、行きましょう。
* この記事で引用した聖句は、特に記載がない限り、すべて新共同訳となっております。



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驚異のメシア預言 | 出生に関する預言について



【メシア預言】彼は「アブラハムの子孫」から現れる
アブラハムは「ユダヤ人」と「アラブ人」の祖とされる人物で、今からおよそ
4000年ほど前の人です。
「ユダヤ教」「キリスト教」「イスラム教」は、彼を起源としていることから、この3つを合わせて「アブラハムの宗教」とも呼ばれます。

以下の聖句(聖書の言葉)は、神がアブラハムに語られた言葉なのですが、
メシアとされる人物が、彼の子孫から出ること、また、すべての国民がメシアによって祝福されることが示されています。
† 地上の諸国民はすべて、あなたの子孫によって祝福を得る。あなたがわたしの声に聞き従ったからである。
創世記 22:18(旧約聖書)
日本語だと分からないのですが、この中で「子孫」と訳されている単語は、原文では「単数形」が使われています。
つまり、”子孫の中のあるひとりの人物を指している” と解釈できるのです。

指摘されているよ。
† ところで、アブラハムとその子孫に対して約束が告げられましたが、その際、多くの人を指して「子孫たちとに」とは言われず、一人の人を指して「あなたの子孫とに」と言われています。この「子孫」とは、キリストのことです。
ガラテヤ 3:16(新約聖書)
イェシュアは、今からおよそ2000年前の人物ですから、
この ”ひとりの人によって、諸国民が祝福を得る” というメシア預言は、彼が誕生する約2000年も前になされたものなのです。
【メシア預言】彼は「ユダ族」の中から現れる
イスラエル民族は、12の氏族からなっています。
今からおよそ2900年ほど前、イスラエルは南北に分裂し、その後、
北の「イスラエル王国」は、他国に滅ぼされてしまいます。


以下の聖句では、メシアが「ユダ族」から出ることが示されています。
† 王笏はユダから離れず、統治の杖は足の間から離れない。ついにシロが来て、諸国の民は彼に従う。
創世記49:10(旧約聖書)

「王笏(おうしゃく)」とは、君主が手にする杖のことで、ここでは「王権」を象徴しています。
同様に「統治の杖」は「統治権」の象徴です。
「シロ」という単語の解釈には諸説あるようですが、ヘブライ語で「栄える、引き出す」を意味する言葉であることから、
一般に、”ユダ族から引き出されたメシア” を象徴する名前だと解釈されています。
この単語は、文字を数字に換算する「ゲマトリア」の観点からも、メシアを指し示していることが分かるのですが、
話がややこしくなってしまうので、詳しくは、ゲマトリアを扱う際に見ることにしましょう。
* イェシュアを「メシア」として認めるユダヤ人。要するに、ユダヤ人クリスチャンのこと。
彼のことを毛嫌いするユダヤ人の中において、近年、このようなメシアニックジューが、
少しずつ増えてきていると言われています。
† 王笏はユダから離れず、統治の杖は足の間から離れない。しかし、それは権威を身に帯びた者がくるまでのことである。諸国の民はその方に従う。

イスラエルの12氏族というのは、アブラハムの「ひ孫」に当たる、12人の兄弟がもとになっているのですが、実はその中で、ユダは4男坊に当たります。
「ルベン」「シメオン」「レビ」という3人の兄が罪を犯したため、4男であるユダの子孫たち、つまりユダ族が、他の氏族を治める権威を与えられたのでした。
* ルベンの犯した罪:創世記 35:22 シメオンとレビの犯した罪:創世記 34章
実は、AD70年にイスラエルの首都にある「エルサレム神殿」が崩壊した際、
家系図がすべて失われたため、イスラエルの民は自分がどの氏族に属しているのかが分からなくなってしまいました。
つまり「ユダ族」出身であることを知るためには、少なくとも、メシアがAD70年以前の人物でなければならないことになるわけです。
そして、AD30年ごろ処刑されたイェシュアは、この ”AD70年以前の人物であること” という条件を、クリアしていることは言うまでもありません。
【メシア預言】彼は「ダビデの家系」から現れる

以下の聖句では、メシアがダビデの家系から出ることが示されています。
ちなみに、聖句の中に出てくる「エッサイ」とは、ダビデの父に当たり、彼は平民でした。
王であった「ダビデ」ではなく、あえて その父の「エッサイ」の名が用いられていることにより、
メシアが裕福な王族としてではなく、貧しい平民の子として生まれて来ることも、この箇所では示唆されているのです。
† エッサイの株からひとつの芽が萌えいで、その根からひとつの若枝が育ち、その上に主の霊がとどまる。(略)彼は主を畏れ敬う霊に満たされる。目に見えるところによって裁きを行わず、耳にするところによって弁護することはない。弱い人のために正当な裁きを行い、この地の貧しい人を公平に弁護する。(略)その日が来れば、エッサイの根はすべての民の旗印として立てられ、国々はそれを求めて集う。そのとどまるところは栄光に輝く。
イザヤ 11:1~4.10(旧約聖書)

上記の聖句では「芽」および「若枝」が「メシア」を象徴する言葉として使われています。
これらの象徴が、エッサイの血を引く歴代の王でないことは、”すべての民の旗印として立てられ ” と記されていることから分かります。
なぜなら、歴史上「エッサイ・ダビデの血を引く王」が、地上のすべての民の旗印として立てられたことは、一度もないからです。


つまり「株」という言葉によって、メシア登場の時代には、ダビデ家が没落していることが暗示されているのです。
事実、イェシュアの時代にユダヤの王位についていたのは「ダビデ家」ではなく、ヘロデというエドム人でした。


【補足】
ちなみに、新約聖書(マタイ 2:23)には、イェシュアを通して「メシアがナザレの人と呼ばれる」という預言が成就したという旨の記述が見られますが、
旧約聖書のどこを探しても、そのような預言は見当たらないのです。
「牧師の書斎」さんの情報によりますと、実は上記の「若枝」の原語「ネーツェル(動詞形 ナーツァル)」が、ナザレという町を意味するようになったのだそうで、
「メシア」=「ネーツェル(若枝)」ということから、「メシアはナザレ(若枝)の人と呼ばれる」という預言が成就したと言われているとのことです。
【メシア預言】彼は「ベツレヘム」で生まれる。

以下の聖句より、メシアが「ベツレヘム」で生まれることが分かります。
† エフラタのベツレヘムよ、お前はユダの氏族の中でいと小さき者。お前の中から、わたしのために、イスラエルを治める者が出る。彼の出生は古く、永遠の昔にさかのぼる。
ミカ 5:2(旧約聖書)

「彼の出生は古く、永遠の昔にさかのぼる」との記述から、ここで語られている「イスラエルを治める者」が、地上の王ではないことが分かります。
「イェシュアは、預言されていたメシアかどうか?」ということについて、イェシュアと同時代を生きた当時のユダヤ人たちの間で1つの争点となり、
また、つまずきの元ともなったことが、彼の出身地に関してでした。
なぜなら、メシア預言によれば、メシアは「ベツレヘム」という町から出るとされているのに、
イェシュアの出身地は「ガリラヤ地方のナザレ」だと認識されていたからです。
† フィリポはナタナエルに出会って言った。「わたしたちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ。」するとナタナエルが、「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と言ったので、フィリポは、「来て、見なさい」と言った。
ヨハネによる福音書 1:45~46(新約聖書)
† 彼らの中の一人で、以前イエスを訪ねたことのあるニコデモが言った。「我々の律法によれば、まず本人から事情を聞き、何をしたかを確かめたうえでなければ、判決を下してはならないことになっているではないか。」彼らは答えて言った。「あなたもガリラヤ出身なのか。よく調べてみなさい。ガリラヤからは預言者の出ないことが分かる。」
ヨハネによる福音書 7:50~52(新約聖書)
たしかに、イェシュアは「ナザレ」という、”都の人たちには見向きもされないような小さな田舎町” で育ちました。
しかし、彼がまだ母親の胎内にいたころ、ローマ皇帝アウグストゥスにより、住民登録の勅令が出されました。
これは人口調査のための勅令だったのですが、これにより住民たちは、各自、自分たちの町(本籍地)へ行って登録することとなったのです。


イェシュアを身ごもっていたマリアは、夫のヨセフと共に自分たちの町へと戻ったのですが、その町こそが「ベツレヘム」だったのです。
そして折しも、2人がベツレヘムに滞在している間に、マリアは月が満ちて、イェシュアを出産したのでした。
このように
- 皇帝から住民登録の勅令が出されたこと。
- マリアの出産のタイミング。
- ヨセフとマリアの本籍地がベツレヘムであったこと。
等が重なって、上記の預言は、イェシュアにおいて成就したわけです。
これを「天の配剤」と見るか、「偶然」あるいは「でっち上げ」と見るかは各人によりますが、
これによって「既得権」や「金銭欲」「高慢さ」にまみれた一部の宗教家(ユダヤ教の指導者)たちが、メシアを見抜けない状態に置かれたことは、とても興味深いことだと思います。

神は、ある人々の目をくらませ、他の人々には光を与えることを望まれた。このことを原理として受け入れなければ、神の業はいっさい理解できない。
『パンセ(上)』 パスカル 著 塩川徹也 訳 岩波文庫
イエス・キリストは、自分がナザレの出身ではないとは言わない。それは、悪人の目をくらませたままにしておくためだ。
『パンセ(上)』 パスカル 著 塩川徹也 訳 岩波文庫
【メシア預言】彼は王でありながら「質素な家庭」に生まれる
メシアなる人物は、イスラエルの王として、数千年の昔から その誕生が待望されて来ました。
また、アブラハムに語られた預言で見たように、このメシアによって、私たち異邦人も祝福に入るとされていることから、メシアは我々にとっても最重要人物と言える存在です。

また、聖書の中において、彼は「王の中の王*」とも表現されています。
* 第1テモテ 6:15 黙示録 1:5
以上のことを踏まえると、彼は堂々たる王家の者として誕生しても良さそうなものですが、神はそのようにはされませんでした。
下記の聖句では、メシアが「王族」や「貴族」「豪商」などの裕福な家庭ではなく、つましい家庭に生まれ、育つことが預言されています。
またここでは同時に、彼が人目を引くようなカリスマ的な人物などではなく、容姿も ごく平凡なものであることが預言されています。

† 彼は若枝(苗木)のように、
乾いた地から出た根のように、
彼(神)の御前に育つであろう。
彼には姿も、顔立ちの良さもない。
私たちが彼を見る時、
私たちが望むような美しさは、彼にはない。
イザヤ 53:2(King James Version + Strong’s )
肥沃な土地ではなく「乾いた地から出た根のように育つ」と預言されていますが、大工の家庭で育ったイェシュアは、この「メシアの条件」もクリアしている、と言えると思います。
待望された王である「メシア」が、ごく平凡な容姿をしていることには、すこし意外な感じもしますが、しかしこれも、”神の前に謙虚な心を持たないユダヤ人たち”の目をくらますための、神の配慮だったのかもしれません。
驚異のメシア預言 |「自分の意思がおよぶ預言」と「そうでない預言」との対比

ここまで「メシアの出生」に関する預言をいくつか見てきましたが、これらの預言の特徴を確認する前に、まずは、以下のメシア預言を見てください。
† 娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。
見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者。高ぶることなく、ろばに乗って来る。雌ろばの子であるろばに乗って。
ゼカリヤ 9:9(旧約聖書)
この箇所では、メシアがロバの子に乗ってエルサレムにやってくることが預言されています。

しかし、このゼカリヤ9:9のような預言は、自分の意志で成就させようと思えば、させることができてしまいます。
一方、これまで見てきたように、自分がどこで、どの部族の どの家系から生まれるかなどは、自らの意思ではどうすることもできない事柄です。
メシア預言には、このような預言が数多くあります。
「今どき預言だなんて、ファンタジーでもあるまいし」と、非科学的なものとして一笑に付するのは簡単です。
ただ、このように1つひとつ預言を見ていくと、ちょっと「偶然」のひとことでは片付けられない、ということが徐々に分かってくると思います。
まとめ

今回は「メシアの出生に関する預言」について見てみたよ。

- メシアとされる人物は、アブラハムの子孫から出ること、また、すべての国民が、このメシアによって祝福されるということが預言されている。
- メシアは「イスラエルの12氏族」の中の「ユダ族」から輩出されることが預言されている。
- メシアは、ユダ族の中でも「ダビデの家系」から輩出されることが預言されている。
- メシアは「ベツレヘム」という町で生まれることが預言されている。そしてこのことが、高慢な者たちをふるい分ける結果となった。
- メシアは「質素な家庭で育つこと」「カリスマ的な人物でも容姿端麗でもないこと」が預言されている。
- 「メシア預言」の多くは、”自分の意志ではどうすることもできないこと” で成り立っている。
今回は、出生に関する預言を見ただけなので、これだけで聖書の預言が「偶然」か「真実」かを判断するのは難しいでしょうし、早計というものでしょう。
これから私たちは、数回にわたって、この「メシア預言」を中心に見ていきたいと思いますので、ぜひ、色メガネを外して、まっさらな気持ちで旅を続けてみてください。
長い記事を最後までお読みいただき、ありがとうございました!

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