一人の男が地下牢にいる。
彼は自分の判決が下されたかどうか知らず、それを知るのにもはや一時間の猶予しかない。しかし下されたと知れば、それだけの時間で判決を取り消させるのに十分だ。
彼がこの時間を使って、判決が下されたかどうかを調べるかわりに、トランプ遊びに興ずるとすれば、それは自然に反する。
『パンセ(上)』 パスカル 著 塩川徹也 訳 岩波文庫


~ 聖書は信じるに値するか? No.24 ~
「イエスが十字架上で死んだことの意味」
について、お伝えしています。
聖書になじみが無い方からすれば、
「クリスチャンって、何で十字架にかけられた人なんて信じてんだろ?」と思われるでしょう。
実は、イエスが受けた十字架刑は、たんにローマ帝国による「罪人の処刑」であったのではなく、全人類の運命にかかわる「霊的な出来事」だったのです。
今回は、この”人類史上、最も重大な出来事”について、見てみましょう。
【合わせて読みたい】
『十字架刑とイエスの死因について | 彼は、本当に死んだのか?』
【神の御業の丘陵 ― kami no miwaza no kyuuryou ―】
私たちは今、この探究の旅において、最も重要でありながら、かつ、受け入れるのが非常に困難な地点へとたどり着きました。
さあ、丘の頂きに立つ、あの古びて赤黒く染まった「十字架」が、私たちにいったい何をもたらしたというのか、共にたしかめてみましょう。



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十字架の意味 | イエスの死がもたらした「霊的な大変革」の5つの側面

約2000年前、イエスが十字架上で息を引き取ったことは、たんに中東の「カリスマ性」を持った倫理教師が、ローマの残酷な処刑法で無残にも命を落とした、という程度の出来事ではありませんでした。
ただ、この出来事によって起こった「大変革」は「霊的・不可視的」な変化であったため、なかなか私たちには、理解し難いものでもあります。
あるいは、この「十字架の意味」を理解するには「理性」や「知性」によってではなく「信頼(信仰)」によるところが大きいのかもしれません。
この、単純そうでいて実は奥が深い「十字架の意味」を、今回、5つの側面にスポットを当てて、紐解いていきたいと思います。

- 転落からの回復
- 罪の赦し
- 神との和解
- 人類の新創造
- 謀略の破壊
【イエスの十字架の意味】アダムとエバの「原罪」を無効とした
1つ目の側面は「転落からの回復」です。
この側面をより深く理解するには、アダムとエバが「エデンの園」にて犯した失敗について、知っておく必要があります。

【合わせて読みたい】
『アダムとエバによる負の遺産 | 聖書が語る罪(原罪)とは何なのか?』
ざっくり説明すると、原罪とは、「アダムとエバが神の命令を無視し、自分たちも神のようになろうとしたこと」を指します。
この「原罪」によって人は「死ぬ存在」となり、地上は「邪悪な霊たち」によって不法に占拠される形となってしまったのでした。
イエスの十字架による死は、この諸悪の根源である「原罪」をひっくり返し、帳消しにしたのです。
アダムとエバは最初の人間たちとして、いわば「人類の代表」でもありました。
一方、神から遣わされた「メシア」であったイエスは、我々と同じ「肉体」をまとい、完全に人としてこの地上を歩みました。
それは、ご自分が「人」として生きることで、アダムとエバの失敗を取り戻すためでもあったからです。
イエスは、人類を代表する存在として地上を歩む間、1度も罪を犯しませんでした。
そして十字架で死に、復活したことによって、原罪の結果生じた「死」をも打ち破ったのです。
このようにイエスは、”アダムとエバの失敗”を逆転させ、「原罪」を無効としたのでした。
ちなみに、イエスが荒れ野で、邪悪な霊的存在である「サタン」から誘惑を受けた際、すべて聖書の言葉(= 神の言葉)を用いて退けたのは、
神の言葉を疑ったアダムとエバの過ちを、帳消しにするためであったとも言われています。
【イエスの十字架の意味】自らを生贄として捧げ、私たちの罪を購った
2つ目の側面は「罪の赦し」です。
ユダヤ教では昔から、民の犯した罪を贖(あがな)う*ため、神の教えに従い「傷のない子羊」を生贄として捧げる、ということが行われていました。
金品など、あるものを差し出すことによって、罪をつぐなうこと。
クリスチャンたちは、上記の神の教えを ”罪のないメシアが人々の罪を贖うため、生贄として捧げられること” の型(予型、予表)だと考えています。
罪の性質を持つ私たちには、その戒めのすべてを守ることは、ほぼ不可能とも言えます。
神は正義の神である以上、不正を見逃すわけにはいきませんから、本来、私たちは罪を罰せられるべき存在なのです。

ところが、私たちの代わりに、イエスが罰を受けてくれたのだと聖書は語ります。
つまり、イエスが十字架上で、すでに罰を受けてくれたので、私たちは「無罪」とされているわけです。
実は、裁判において、
「最終的に『無罪』が確定した事件については、もう罰することはできないよ」
というルールがあり、これを「一事不再理(いちじふさいり)」と呼んでいます。また、
「すでに、いちど刑罰を受けたならば、同じ犯罪について、それ以上罰することはできないよ」
というルールもあります。
何人も、実行の時に適法であつた行為又は既に無罪とされた行為については、刑事上の責任を問はれない。
又、同一の犯罪について、重ねて刑事上の責任を問はれない。
日本国憲法 第39条
このように、罪を犯さなかったイエスが十字架において自らの身体を「生贄(いけにえ)」として捧げることで、私たちが神に対して犯す「過去」「現在」「未来」のすべての罪が、もうすでに赦されたのだと、聖書は語るのです。
【イエスの十字架の意味】断絶していた神との繋がりを取り戻す道が開かれた
3つ目の側面は「神との和解」です。
私たちの祖先が、神の戒めを破って「善悪の知識の木」から取って食べた瞬間、人間と神とのつながりは断たれました。
彼らの行為は「神のことば」よりも「自分たちの考え」に従って生きる道を選択するものだったからです。
人は……、
- 体(肉体の部分)
- 魂(精神の部分)
- 霊(私たちの本体)
の3層構造になっている、というのが聖書的な解釈なのですが、アダムとエバが上記の選択をした際に「霊」の部分が死んでしまった、と言われています。
それ以降、人は「体」と「魂」のみを使って生きる、非霊的な存在となってしまいました。
しかし、イエスが「十字架の死と復活」によって、”アダムとエバの失敗” を逆転させ、「原罪」を無効としたことにより、死んでしまった「霊」の部分が、再起動される道が開かれたのです。
もっと具体的に言うと、メシアである「イエス」が神から遣わされた者であると信じた人たちに「聖霊」と呼ばれる、神の霊が与えられるようになったのです。
これは「体と魂を原動力とした生き方」から「霊を原動力とした生き方」へ、シフトさせたとも言えます。
このようにイエスの十字架によって、アダム以降、断ち切られていた「神とのつながり」が、回復されたのです。
私たちにとって大切なのは、私たちがみじめで、
堕落して、神から切り離されていること、
しかしそれにもかかわらずイエス・キリストによって
贖われたということを知ることに尽きる。
『パンセ(中)』 パスカル 著 塩川徹也 訳 岩波文庫
【イエスの十字架の意味】アダムとは別系統の人類が生み出された
4つ目の側面は「人類の新創造」です。
さきほど、アダムとエバの転落以降、人は「体」と「魂」のみを使って生きる、非霊的な存在となったと言いましたが、
聖書では、この体と魂の部分を合わせて「肉」と呼んでいます。
今の私たちは、自己の「奮闘」や「努力」によって人生を歩んだり、きびしい生存競争にさらされるような「肉的な生き方」をしているわけです。

神はもともと、奮闘によってではなく「祝福」によって、努力によってではなく「恵み*」によって生きるように、アダムとエバを創ったのです。
相手に対して「優しさ」や「好意」をあらわす行為。あるいは「無条件」でプレゼントをすること。
「肉的な生き方」に、どっぷりと浸かって生きてきた今の私たちには、自分の奮闘によらず、神の一方的な好意によって人生が祝福されたり、
自分で何の努力もしていないのにも関わらず、無条件で、ただ一方的に良いものを与えられたりといった、都合のいい話なんて「ありえない」と思われるかもしれません。
この、苦しみと徒労に満ちた「肉の生き方」にピリオドを打ったものこそが、イエスの十字架でした。
イエスが十字架上で息を引き取ったのち、彼を信じた者たちに聖霊が降った瞬間、4000年近く続いた「アダム系列」の人類とは別に、新たに「キリスト系列の人類」が創造されたのです。


見た目には何の変わりもありませんが……、
- 聖霊を宿した「クリスチャン」
- 霊が死んだままの「旧アダム系列の人々」
という両者は、実は霊的に、まったく「別の人類」と言えるのです。
さきほど、イエスが荒れ野にて「誘惑」を受けた話をしましたが、あれはつまり「最初のアダム」の通った道を「最後のアダム」であるイエスが踏み直すことで、彼らの過ちを上書きしたのです。
だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。
Therefore if any man be in Christ, he is a new creature: old things are passed away; behold, all things are become new.
第2コリント 5:17(新共同訳 & King James Version)
割礼の有無は問題ではなく、大切なのは、新しく創造されることです。
For in Christ Jesus neither circumcision availeth any thing, nor uncircumcision, but a new creature.
ガラテヤの信徒への手紙 6:15(新共同訳 & King James Version)
このように「キリストの十字架」は、乱れた秩序を根底から立て直すため「アダム系列」の人類とは別に「キリスト系列」の人類を、新たに創造したのです。
【イエスの十字架の意味】サタンの思惑を打ち砕いた
5つ目の側面は「謀略の破壊」です。
さきほど、サタンという名をチラッと出しましたが、この「邪悪な霊的存在」こそが、アダムとエバを本来の状態から転落させ、私たち人類を……、
- 努力と奮闘
- むなしさ
- 苦しみ
- 悲しみ
- 悩み
- 病
といった「災い」多き苦難の状態へと至らしめた「張本人」なのです。
サタンと言えども、神によって創造された存在です。聖書によれば、彼はもともと力ある有能な「御使い*」であったことが読み取れます。
私たち人類とは別系統の、肉体を持たない「霊的存在」。
次回の記事にて詳しく見ますが、聖書によると彼は「自分自身も神のようになりたい」との思いから、反旗を翻したようです。
「黙示録」という書物に、彼の「滅びの運命」が啓示されているのですが、彼自身、自分がやがて神によって裁きを受けることを熟知しています。
その彼が「神の裁き」から逃れるために行った方法のひとつが、”人を神から引き離し、罪を犯させ、自らと運命を共にさせること” でした。
なぜなら神は、”罪を犯した者を見て見ぬ振りをする” ようなことは決してなさらない「義なる存在」だからです。
もし、罪を罰しないのであれば、神はもはや、義ではなくなってしまいます。

サタンを罰すれば、大切な人類をも罰せざるを得なくなる。
逆に、人を罰せずにおくならば、同様に、サタンをも罰せずにおかなければならい……。
このように、彼は神に対し「サタンと人を共に滅ぼす」か「両者を共に見逃す」かという、究極の選択を突き付けたのでした。
ところが、それに対し、神の出した答えが……、
「罪を犯したことのない神の最愛の子を、人として遣わし、全人類の罪を彼に負わせる」
という、”自分の知恵を誇るサタン” にとって、想像だにしないものだったのです。
「神の御子(みこ=メシアのこと)が、罪を犯していないにも関わらず裁かれたこと」と「彼が、完全に人として地上を歩んだこと」がポイント。
父なる神と御子は、霊的に切り離すことのできない一体の存在であるため「神ご自身が人となって地上に生まれ、全人類の罪を代わりに背負った」とも言うことができる。

こうして、イエスが神から遣わされた者であることを信じ、受け入れた人々には、”やがて、人とサタンに下される「滅びの運命」” から逃れる、救済の道が備えられたのでした。


つまり、これまでの「人類史」および「イエスが再び来られるまでの期間」は、人間を滅びから救い出すために神が設けた期間なのです。
そして聖書には、サタンおよび、彼に加担する邪悪な霊たちに裁きが下される「世の終わり」について、預言されてもいます。
イエスの十字架によって、神が人の罪の問題を処理してしまったため、「神に属する者たち」と「世に属する者たち」、さらに言えば「神」と「サタン」の勝敗は既についています。
そしてこの「滅びからの脱出口」は、すべての人々の前に無償で差し出されています。
ただ、多くの人々は、神が用意したこの「救いの道」をあざ笑い、拒んでいるのが現状です。
「滅びから脱出する道」が目の前に開かれているのですが、残念ながら、この道を見出す者は少ないのです。
参考:You Tube動画「日本人の知らない聖書の真実」
まとめ
- イエスの十字架は、”アダムとエバの失敗” を逆転させ「原罪」を無効とした。
- イエスが十字架上で自らを「生け贄」として捧げたことで、私たちのすべての罪が赦された。
- イエスの十字架によって、アダム以降、断ち切られていた「神とのつながり」が回復された。
- イエスの十字架は「アダム系列」の人類とは別に「キリスト系列」の人類を創造するものであった。
- イエスの十字架は「サタンの謀略」をくつがえし、人を滅びから救い出すためのものであった。
いかがだったでしょうか?
今回は「イエスの十字架とは何だったのか?」という点について見てみました。
それは、人を「霊的な束縛」から解放し取り戻すために、神が計画したものだったのです。
この記事によって、イエスの十字架に「人を何とかして助け出したい」という、神の深い愛の配慮が込められていたことが、すこしでも伝われば幸いです。
長い記事を最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
人間の意志が自由であるならば、人間は自分で自分を救うことが出来る。
そうであれば、神がイエス・キリストを私たちのために送って、十字架に架けて死なせるような形で人間が救われる必要などない。
そのことが必要だったのは、いわば人間は自分では神の方を向くことができないからである。
~マルチン・ルター~
Maranatha Grace Fellowship のHPより引用

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