新生活を実際にやり遂げることができるかどうかという疑いは、もし我々自身の力が問題になるのなら、実に当然な疑問であろう。
しかし魂はだんだんに、「私が弱いときにこそ、私は強い」というパウロの逆説的な言葉の真理を悟ってくる。
――新生活といっても、それが直ちに人間の古い性質を変えてしまうわけではない。ただ別の性質が新しく加わってくるにすぎず、それが初めの性質と戦いをはじめ、順調にいけば最後に勝利をおさめることになる。
その際、人間のなすべきことは、戦うための力を受け容れる心構えを常に怠らないことである。
『幸福論(第二部)』 ヒルティ著 草間平作 訳 岩波文庫

「神の陣営に参加する方法」について、お伝えしています。
これまでの記事を読んで来てくださった方は、お分かりだと思いますが、私たちの人生とは、ある種の「戦い」であり、この世はまさに「戦場」とも言える場所です。
そして私たちは、1人ひとりが「神の陣営」に参加するのか「世(サタン)の陣営」に参加するのかが、問われているわけです。

あなたは必ず、どちらかを選ばなければなりません。
この記事は、「神の陣営に属したい」という同胞のために、ささやかながら、その道案内をするために書いたものです。
とは言え、堅苦しく考える必要など、毛頭ありません。神へといたる道は、実にシンプルだからです。シンプル過ぎて、肩透かしを食らうほどです。
さあ、私たちと一緒に「神の陣営」へと立ち返りましょう。
あなたの帰りをずっと待ち続けてくれていた「聖なる陣営」へと……。
【神の御業の丘陵】
– kami no miwaza no kyuuryou –
暴風は、ますます激しさを増し、雷鳴とともに大粒の雨が、うずくまる一行を叩きつける。
「恐れてはいけませんっ! 私たちの感情を掻き乱すのが彼らの狙いなのですっ。敵に足場を与えてはいけません!!」
大地は揺すぶられ、丘陵全体が軋(きし)む。
「さあ、もうここを離れましょう! 闇の中から抜け出し、憂いなき休息の場所へと向かうのですっ!」
旧約聖書も新約聖書も、人間に向かっては、このようなただ一つの「回心*」――ただ一つの意志活動――を要求するだけであって、決して「改善」を要求してはいないのである。
この意見によれば、人間は元来、自分を改善することも、改善されることも出来ないものであって、ただわずかに、自分自身を脱却して、より良い性質を授かり得るだけである。
ここにキリスト教の全秘密がある。これは公開されているのではあるが、それでもなお、多くの人々にとっては隠されてあるのだ。
『幸福論(第一部)』 ヒルティ著 草間平作 訳 岩波文庫
回心 = 悔い改め(メタノイア)= 思いの方向を180度変えること。



※栄養素等表示基準値に基づき、脂質・飽和脂肪酸・n-6系脂肪酸・炭水化物・ナトリウム・熱量を除いて、すべての栄養素で1日分の基準値の1/3以上を含む。
「クリスチャンになる方法」の前に…… | 神の陣営に加わるための「条件」とは?



もしかしたら、眠れる羊くんと同じように思われている方も、いらっしゃるかもしれません。
では、クリスチャンになるための「条件」について、まずは見てみましょう。
【クリスチャンになる方法】神の陣営に参加するための「資格」


眠れる羊くんの言ったようなことは「肉の努力」と言って、アダムとエバが選んだ生き方そのものです。

イェシュアの時代、パリサイ派などの宗教指導者たちがおちいっていた「律法主義」も、まさに自らの努力で、律法を完全に守ることにより「正しい者」になろうとする、肉の努力であったわけです。
そして彼らは、それができていなかったにも関わらず、上辺だけを装って、民衆に対し、偽善的に振るまっていたため、イェシュアに厳しく批判されたのでした。
そう、私たちにはできないのです。
冒頭で、ヒルティー氏の言葉を引用したように、どうがんばっても、私たちは自分自身を改善することができないため、まったく新しい者にしてもらうほかないのです。
神の陣営に参加するためには……、
- 立派な人間かどうか
- 聖書の知識の有無
- 頭脳の明晰さ
- 社会的地位
- 経済力
- 犯罪歴
- 学歴
といったものは問題にされません。
世の「システム」や「価値観」の中で長年生きてきた私たちには、いまいちピンとこないかもしれませんが、神にとって、上記のようなことは大して重要なことではないのです。


神は私たちが、肉によって奮闘するのではなく神の内で安息することを、自らの力に頼って生きるのではなく、神に頼って生きることを望んでいるのです。
このように「神の陣営」に加わるために必要な資格といったようなものは、存在しないのです。
【クリスチャンになる方法】神の陣営に参加するための「準備期間」

神の陣営に参加するための「準備期間」などありません。
ある一定の「準備期間」を経たのち、ようやく参加できる、といったものではないのです。
これは、気の遠くなるような受験勉強の結果、ようやく東大生になれる、といったような「世的な事柄」とはわけが違います。
その人が「自分も神の陣営に加わりたい」と思ったその時に、すぐさま加われるのです。
なぜなら、クリスチャンの歩みとは、”神に属するのにふさわしい者になってから神に立ち返る”のではなく、”立ち返ったのち、徐々に、神に属するのにふさわしい者となっていく”「過程」だからです。

この人生とは神聖でいることではなく、神に似たものとなる過程です。健康ではなく、健康を回復すること、ある状態でいることではなく、ある状態に変貌することなのです。
私たちは今、なるべき者になっていないけれど、そうなりつつあります。その過程はまだ終わっておらず、着々と進行中です。
これは目標というのではなく、歩むべき正しい道なのです。
今のところは、あらゆるものが光り輝いているわけではないけれど、それでもすべてが清められている過程にあります。
マルチン・ルター
Maranatha Grace FellowshipのHPより引用
たとえば……、
「十字架について、難しいことはよく分からないけれど、直感的に、聖書の言っていることが真実だと感じる」
という状態であったとしても、まったく問題などありません。
むしろ問題がないどころか、あなたのために命を捨ててくれたイェシュアはもちろん、父なる神や、すでに天の御国(みくに)へと召された、全時代のクリスチャンたち、さらには御使いたちまでもが、よろこんであなたを迎え入れてくれるでしょう。
† これ*と同じように、私はあなたがたに言う。1人の悔い改めた罪人の上では、神の御使いたちがいる所で喜びがあるのだ。
ルカによる福音書 15:10(K.J.V)
* 徴税人などの「罪人たち」と共に食事をしているイェシュアを批判する「ファリサイ派」や「律法学者」たちに話された2つのたとえ話、
・見失った一匹の羊が見つけ出された話
・無くした一枚の銀貨を見つけ出した話
をさしている。
このように、神の陣営に加わるための「準備期間」といったものはなく、いつでも、その扉は開かれているのです。
【クリスチャンになる方法】神の陣営に参加するために行く「場所」

意外に思われるかもしれませんが、
- クリスチャンになる方法
- 神の陣営に加わる
という観点で見た場合、教会に通うことは「必須の条件」ではありません。
「クリスチャンであること」と「教会員であること」は、イコールではないからです。
しかし、神の陣営に属するということは、あくまでも「あなた」と「神」との個人的な関係(つながり)の問題ですので、〇〇教会に所属する、といったこととは、また別の話なのです。
私は「教会」を否定しているのではありません。
ただ「宗教」に対するマイナスのイメージのせいで、”神に立ち返ること” を躊躇(ちゅうちょ)し、世にとどまっているのであれば、
教会に通わずとも神に立ち返る方がはるかに良い、という意味です。
私自身「教会」には所属していませんが、神とのつながりは、ちゃんと持っています。
このように、何らかの「団体」や「組織」に所属することと、神の陣営に加わることとは、本質的に無関係のことなのです。
あらゆるキリスト教団体の中には、その団体に所属することをもって主要事だと考える人々がたくさんいたり、
また教団に属するということの本来の根本条件をただ毎日曜日に二時間だけ心にかければよいと心得る人々が大勢いることをまぬかれないのである。
『幸福論(第二部)』 ヒルティ著 草間平作 訳 岩波文庫
【クリスチャンになる方法】神の陣営に参加するのに必要な「物」


〈 神との関係に、お金は必要か?〉
世の中には「宗教」と名のつく団体がたくさんありますが、おそらく、それらの多くが、何らかの形であなたに「お金」を要求することでしょう。
なぜなら、そういった組織は「神」に仕えているのではなく、実際は「金」に仕えているからです。
† 誰も、2人の主人に仕えることはできない。
一方を嫌って他方を愛するか、でなければ、
一方にしがみついて他方を軽蔑するかのどちらかだからである。
あなたがたは「神」と「マモン*」とに仕えることはできない。
マタイによる福音書 6:24(K.J.V + Nagai)
* マモン(mammon)…… 本来の意味は不明だが、一般に、アラム語で「富」を意味するmamonに由来するとされ、「富、金銭、財産」等 の意味に解される。時に擬人化され、悪霊の名称だとされる場合もあるが、それはあくまでも、ひとつの解釈に過ぎない。
「お金」がかかるかどうか、これが「神に属している組織」か「世に属している組織」かを見極めるための1つの試金石、と言えるでしょう。

〈 神に立ち返るために「聖書」は必要か?〉
今でこそ「聖書」は簡単に手に入りますが、これまでの歴史を見ますと「希少」かつ「高価」で、聖書が手に入らなかった時代や、一般庶民が個人で「聖書」を読むことが禁止されていた時代などがありました。

そのような時代にあっても、今と変わらず、神に立ち返る人たちがいたわけです。
つまり、何が言いたいかというと……、
神の陣営に加わるには「聖書」ですら必須ではないということです。
神に属する者となったのち「聖書の言葉」は、私たちの成長にとって、とても大切な「霊的な食べ物」のようなものです。
体を養うのに「食べ物」が必要なように、霊を養うためにも「霊的な糧(かて)」が必要なのです。
上記の時代に生きたような人たちは、おもに「口伝え」によって、世(サタン)と縁を切り、神のもとへと立ち返る「決断」をしたのでした。
まして、現代においては……、
- ネットで閲覧する
- 図書館で借りる
- 教会で借りる
- 人に借りる
などなど、簡単に「聖書」を手にすることができる時代ですから、”凝った装丁の高額な聖書” を持っていなかったとしても、神に立ち返ることは可能なわけです。
素朴な人々が推論なしに信じるのを見ても驚いてはいけない。
神は、彼らが神ご自身を愛し、自分たち自身を憎む気持ちを授け、彼らの心を信じるほうへと傾けられる。
もし神が心を傾けてくだされなければ、有益で信仰の名に値する信仰は決して生まれないだろう。
そして神が傾けてくださりさえすれば、すぐに生まれるだろう。これこそダビデが熟知していたことである。「神よ、わが心を傾かせたまえ」
『パンセ(上)』 パスカル 著 塩川徹也 訳 岩波文庫
たとえば、聖書を持っていなかったり、読んだことすらなかったとしても、神がその人の「心」を動かしさえすれば、
- 人から伝え聞くこと
- You Tube動画
- ラジオ
などを通して「福音」を知り、神に立ち返る、ということは十分にあり得るということです。
また、新約聖書において使徒パウロは……、
「神の力や性質は、被造物を通して明らかに示されているのだから、弁解の余地はない」
ということも、言っています。

ちなみに、聖書の預言によれば、”今後、神の言葉(= 聖書)を見い出すことが難しくなる時代が来る” とされていますので、今は「暗闇の前の恵まれた時代」だと言えます。
† 主を捜し求めよ、
見つけ出せる間に。
呼び求めよ、
彼が近くにいる間に。
イザヤ書 55:6(K.J.V)
このように、神の陣営に加わるためには「お金」や「聖書」といった、物質的なものは、何ひとつ必要ではないのです。
クリスチャンになる方法はこれだけ | 神の陣営に加わるための「祈り」

それは「あなたの意思表示」のみです。
神は「物質的なことがら」ではなく「あなたの心」を見ておられる方だからです。
難しいことは、何ひとつありません。ただ神に、その気持を伝えれば良いだけなのです。
目に見えて、大きな変化があるわけでもありません。
それでも、霊的な領域では「コペルニクス的転回」とも言える大転換が起こっているのです。
すでにダンテが「新生」と呼んでいるこの段階とそれ以前の生活との違いは、初めのうちはさほど大きくないように思われる。
――実際には、これまで味わってきた「人生享楽」は、ゆっくりと少しずつ色あせて行くにすぎないからである。しかしそれでもなお、一つの本質的な相違が常に認められる。
まず、不安定な将来に対する恐れや憂いの気持ちが薄れてくること、また、慢心と意気消沈との間に絶えず動揺することも次第に少なくなってくることである。
――今では心の中に、常に平安にして揺るぎない確固とした一点が存在する。心の奥底が堅固になり、これまでのような満足を求めてやまぬ渇望はもはや消えてしまっている。
その結果、自分や他人に対する忍耐力がおのずから強まり、他人に依存することも少なくなってくる。
また、あらゆる物事の本質を見抜く眼がいっそう確かになり、そこからまたほんとうの人生の知恵も生まれてくる。
最後に、しかもこれが眼目であるが、持続的な罪の感情が無くなるのである。なぜなら、そうした感情が心にきざしても、いつでも直ちに除かれるからである。
そして、自分が正しい道を踏んでおり絶えず前進を続け、かくして全生涯を立派に終えることができるという確信を持つことができるのである。
「正しい者の道は夜明けの光のようだ。いよいよ輝きをまして真昼となる(箴言4:18)」
『幸福論(第二部)』 ヒルティ著 草間平作 訳 岩波文庫
そう、その意味から言えば、神の陣営に加わる者たちとは「神から選ばれた者たち」なのです。
その思いをあなたがしっかりと掴み取り、自らの「自由意志」によって表明した瞬間、あなたは「クリスチャン」となると共に「神の子」となるのです。
私は、ガチガチの「仏教徒の家系」の中で育ったのですが(今でもお経を暗唱できるほどです)、今、自分がクリスチャンであることが心底、不思議でなりません。
「親族」や「友人」「知人」を含め、私の周囲にクリスチャンは1人もおらず、私だけがポツンといる感じです。
救われるべき人は、身の回りにたくさんいるように思えるのに、
なぜ私のようなパッとしない、どちらかというと「ダメ人間」な自分のことなんかを、神さまは選んでくださったのか「謎」で仕方ありません。
このブログの副題にある「We are the blood royal of heaven」とは「私たちは、天の御国の王族」という意味です。
そう、神の子として選ばれるということは、その一族に名を連ねるということであり、イェシュアは「王の中の王」とされていますから、最も気高い「天の王族」の一員となることを意味しているのです。
「悔い改めることなしに、あなたのもとに引き返させて下さい」と神に求めるのは、「引き返すことなしに、引き返させて下さい」と求めるのと同じである。
C・S・ルイス
Maranatha Grace FellowshipのHPより引用
邪悪な者(サタン)たちとの縁を断ち切り、気高く、高貴なる存在の陣営に加わる道を選択しようと思う方は、天に向かって、以下の祈りを捧(ささ)げてみましょう。

天におられる、父なる神さま、
私は今、あなたのもとへと帰ってきました。
どうか、私を、あなたの子どもとしてください。
私はイェシュアを、私自身の「救い主」として受け入れ、
あなたに背を向けていた「これまでの人生」を悔い改めます。
神さま、どうぞ私とともに人生を歩み、
すべての悪からお守りくださいますように。
イェシュアの御名(みな)において、お祈りいたします。
アーメン。

お帰りなさい^^
これで、もうあなたは、クリスチャンです!
ハレルヤ!!
私たちは「神」を父とし「イェシュア」を長子とした、とてつもなく巨大な大家族の子として、今、兄弟姉妹となったのです!
私は心から、あなたの帰参を祝福し、神に感謝します。

あなたは、霊的に生まれ変わり、今や、新しい人生がスタートしました。
「天の王族」として、神の陣営に属する者となったのちも、必要なものは「神に対する信頼」のみです。
「場所」にも「時間」にも制約されず「道具」も「お金」も「何らかの宗派に属すること」も一切必要ありません。
しかし、何らかの形で、少しずつでも「聖書」を読んでいきましょう。

そして、この霊的な戦いにおける、唯一の武器こそが「聖書の言葉( = みことば)」なのです。
敵は、さまざまな「人」や「出来事」をとおして、あなたを神から引き離そうと、ちょっかいを出してくるでしょう。
しかし、恐れることはありません。
あなたは、すでに神の保護のもとにあり、あなたが自分から、神のもとを離れてしまわない限り、敵はあなたに危害を加えることはできないからです。
† 見よ、私はあなたがたに蛇やさそり、さらに敵のすべての力を踏みにじる権威を与えました。
ですから、あなたがたに害を加えるものは何一つありません。
しかし、霊があなたがたに服従するからといって、喜んではなりません。むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。
ルカによる福音書 10:19~20(新共同訳 + K.J.V)
神の明らかな許可なしには、ごく些細なことも諸君の上に起こりはしない。
諸君の敵は、自分では気付かずとも、すべて神の器であり、もし諸君が憎しみや復讐心を抱かずして彼らを見ることができれば、結局、彼らは諸君のために最も有益に働くことになる。
こういう憎しみや復讐心だけが諸君を損なうことができるであろう。
――絶え間ない平和と安息とを決して期待してはならない。それは、この人生のあり方でも、定めでもない。
むしろ、人生の務めを決然と引き受けるがよい。
『幸福論(第三部)』 ヒルティ著 草間平作 訳 岩波文庫
1歩ずつで構いませんから、どのような時でも「みことば」を拠りどころとするよう、日々の生活の中で、自分自身を訓練していきましょう。

私たちは感じることや私たちの前に見えるものによって判断してはなりません。従うべきことはみことばだけです。
マルチン・ルター
Maranatha Grace FellowshipのHPより引用
「みことば」 = 「聖書の言葉」は、霊を養う「霊的な糧(食べ物)」であると同時に「霊的な武器弾薬」「霊的な防具」のようなものでもあります。

ですから私は、自分の心に響いた「みことば」をリストアップして、ちょっとした小冊子のようにして、持ち歩けるようにしています。
それを、ひまな時に反芻(はんすう)するようにしていると、自分の内にあらゆる種類の「武器 & 防具」が蓄えられていき、必要な時に、必要な「みことば」が思い浮かぶようになってきます。
私自身、とても役に立っている習慣なので、あなたにも、ぜひ、オススメしたいと思います。


私が救われたのは2017年の夏ごろなので、キリスト者としては、まだまだ若輩者にすぎません。
それでも、あなたよりほんの少しだけ先に、神のもとへと帰ってきた者としてアドバイスできることがあるとすれば、
とにかく、まずは自分の内に「みことば」を蓄えること、のひと言に尽きます。
今はまだ分からないかもしれませんが、
この ”聖書の中の言葉” こそが、私たちの「武器」であり「防具」であると共に、やがて「よろこび」「希望」「なぐさめ」「判断力」「知恵」「信仰」「忍耐」……etc の源泉となってゆくからです。
ですから、私は心から、さきほどの ”みことばをリストアップする習慣” をオススメいたします^^
「詩篇」は祈り方を教え、「ヨブ記」は苦しみ方を教え、「雅歌(がか)」は愛し方を教え、「箴言(しんげん)」は生き方を教え、「伝道者の書」は楽しみ方を教える。
オズワルド・チェンバーズ
Maranatha Grace FellowshipのHPより引用
比較的狭い範囲でまず親しい交わりに値する人々を選び、これと交わり給(たま)え。
そして、その他の人たちとは争わぬがよい。その人たちが、諸君の言葉に耳をかすことも、それを理解することもできないという点に、すでに彼らの受くべき裁きが含まれているのだ。
――争いや危険を勝手に求めてはならない。しかし、反対者が現れた場合、しかもそれが往々身近な側からであっても、ひどく驚くことはない。
また、どうしてそれに対抗するかを心配しないがよい。キリスト教は最後まで憎まれずには済まない。
『幸福論(第三部)』 ヒルティ著 草間平作 訳 岩波文庫
「この世の霊」の力はきわめて強大である。
幸いにも、我々はこのことを、実生活においてゆっくり少しずつ経験してゆくので、もしそうでなかったら、おそらく誰でも、この霊と戦う勇気を失うであろう。
けれども、それよりもさらに強大な一つの力がある。それは神の力であって、すなわち、真のキリスト教によって人の心の中に生きて働く力なのである。
たいてい最も長期にわたって続くこの期間において* 、肝要なものは堅忍と勇気である。
「あなたの冠が誰にも奪われないように、自分の持っているものを堅く守っているがよい(黙示録3:11)」
そして、一度 鋤(すき)に手をかけたら、うしろをふり向いてはならない(ルカ9:62)。
*:新生後の初期、様々の試練に満ちた期間を指す。
『幸福論(第二部)』 ヒルティ著 草間平作 訳 岩波文庫
アイスランドの賛美歌
悦びは利己心が無くなるや否や、あるいは、無くなるたびごとに、おのずから湧いてくるのである。
――君が君自身のことを念頭に置くや否や、悦びは去ってしまうし、反対に、君が君の生活を神のために、また神の言いつけで他人のために捧げるたびごとに、悦びはあらわれる。
君が悦びを持つのも持たないのも君の意志次第である。
『幸福論(第二部)』 ヒルティ著 草間平作 訳 岩波文庫
たいていの人は、その意志を完全に神にゆだねることができるまでに、かなり長く時間がかかる。
そのまま、まっすぐに真の幸福への道を歩いているのに、早く着く者と、おそく着く者との差が生ずる秘密は、その点にあるのである。
多くの人は、まず、彼らがよく口にしたがる「神の国の事業」とか、懺悔(ざんげ)とか、日々の祈りなどに没頭して疲れきってしまう。
しかし彼らは、神によって求められている唯一のこと、すなわち、彼ら自身の意志を神にゆだねることをしないので、心の平安に到り得ないのである。
なぜなら、神と利己心とは共に住むことができないからである。
『幸福論(第二部)』 ヒルティ著 草間平作 訳 岩波文庫
クリスチャンになった後に受ける「バプテスマ(洗礼)」について

神の陣営に加わった皆さまには、合わせて「バプテスマ(洗礼)」についての記事もお読みいただくことを、オススメいたします。

この記事では……、「洗礼とは何なのか? その意味と、受洗の方法」について、お伝えしています。 記事の前半は、洗礼を受けようとされている方向けの内容となっております。「洗礼にはどんな意味があるの?」[…]
* * *
神のもとへ立ち返ったあなたに、祝福と平安がありますように。
あなたが、この地上で成すべきことをしっかりと果たし、この人生を最後まで無事に歩き通すことができますように。
兄弟姉妹となった私たちを、どうか「地の塩」「世の光」として用い、まだ神から離れている同胞たちを、1人でも多く救い出してくださいますように。
高貴なる王、気高きユダ族の獅子である「イェシュア」の御名において、お祈りいたします。
アーメン。
※「アメイジング・グレイス」の歌詞は、かつて黒人の奴隷貿易を行っていた、イギリスのジョン・ニュートンによって書かれたものです。彼はのちに、自身の行いを悔い改め、船を降り、牧師になった人物です。
- Amazing grace の歌詞
- 驚くべき「恵み」
なんという甘美な響き
私のような、どうしようもない者を救って下さった
かつては道に迷っていたけれど、今は見つけ出され
盲目だったけれど、今は見える
–
私の心に「恐れ」を教えたのは、神の「恵み」
そして恵みが、私の恐れを解き放ってくれた
その恵みが、どれほど貴重なものだったことだろう
最初に信じたその時に
–
多くの「危険」や「苦労」「罠」を通り抜け、
私はすでに来た
私を、ここまで無事に連れて来てくれたのは「恵み」だ
さらに「恵み」が私を家まで導いてくれるだろう
–
そこへ行き、1万の年月がたった時
太陽のように明るく輝き
はじめの頃に劣らず、神の賛美を歌うのだ

あなたの人生に幸あれ! God bless you .
愛を込めて。K