人生をあきらめる前に、あなたが確かめるべき、たった1つのこと

聖書を紹介する、ユーチューブチャンネルの紹介。


このブログでは…… 、

「宗教とは距離を置きつつ、聖書を人生の土台として生きる」
ことを提案しています。

詳しくは「目的のページ」をご覧ください。


  この記事では、人生をあきらめようとしている方へ向けて…… 、
「すべてを手放してしまう前に、聖書や当ブログを通して、まず神がいるかどうかを自分自身で確かめるべきだ」
ということを、お伝えしています。



正直、私も人生をあきらめようとしていましたが、ひょんなことから、聖書の真実を紐解いてゆくうちに、人生が180度変わってしまいました。


あきらめるのは、いつでもできます。


これから私は、”神の存在を確かめるべき理由” と、”そのための糸口” について話してゆきますので、ぜひ、参考になさってみてください。


では、さっそくはじめましょう。

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※栄養素等表示基準値に基づき、脂質・飽和脂肪酸・n-6系脂肪酸・炭水化物・ナトリウム・熱量を除いて、すべての栄養素で1日分の基準値の1/3以上を含む。

【たとえ話】人生をあきらめる前に確かめるべき事

人生をあきらめようとしている人は、砂漠をさまよう兵士に似ている


~砂漠の兵士のたとえ~

ある兵士の乗っていた戦闘機がエンジントラブルで、砂漠へ不時着しました。


彼は、コンパスは持っていましたが、地図は所持していませんでした


兵士は灼熱の中、仲間の兵が助けにきてくれるかもしれないと思い、2日間、待ってみましたが、助けがくる気配はありません。


兵士は力なく水筒を放り投げます。節約しながら、ひとくちずつ飲んでいた水は、もう1滴も残ってはいませんでした。


「ヨッカ……、ミッカカ」


兵士は誰に言うともなく、つぶやきます。空腹でしたが、耐えきれないほどではありません。しかし、激しい喉の渇きだけは、我慢してどうにかなるようなものではありませんでした。


水を失った今、この厳しい環境下では、もって3日か4日でしょう。


男は悩みます。このまま救助を待つか、体力が残っているうちにこの場を離れるか――。


3日か4日の道のりを歩けば、オアシスや人家が見つかるかもしれません。しかし、不時着した機体のそばを離れれば、救援部隊がきた時に見つけ出してもらうことは難しでしょう。


突然、兵士は立ち上がり、空を見回します。


間違いありません。戦闘機の音でした。彼は上空に機影を見つけるや否や、狂わんばかりに両手を振り、叫びました。


しかし、彼はすぐさまその動きをピタリと止め、愕然とします。――敵機でした。しかも、黒煙をあげています。


敵機は轟音を響かせながら兵士の頭上を通り過ぎてゆき、はるか彼方に墜落しました。


虚脱感が押し寄せ、崩れるように、その場に座り込みます。


口をポカンと開け、敵機の残していった黒煙をながめていた兵士の目が、何かをとらえます。


風をはらみ、ゆったりと舞い降りてくるそれは、こちらへ向かってくるようすです。落下傘でした。


少し離れた場所へ降り立った敵兵は、しばらくこちらのようすをうかがっていましたが、やがて、敵意がないことを示しながら、近づいてきました。


兵士はすかさず、拳銃に手をかけます


敵兵は立ち止まり、身振り手振りで何かを訴えています。ある方角を指しながらオアシスと言った部分だけは、聞き取ることができました。


こちらが警戒を解く気がないことを悟ると、敵兵はポケットから取り出した紙を広げ、何かを書き込むと、足元の砂に挿し、去ってゆきました。


敵兵が十分に離れたのを確認すると、兵士は男が残していった物のところへ向かいます。


それは、折りたたまれた地図でした。


地図には、現在地を示すと思われるしるしが書き込まれています。地図によれば、歩いて2日ほどの距離にオアシスがあり、そこからさらに歩いて3日ほどの距離に集落があるようでした。


「バカバカしい!」


兵士の心に、はじめに浮かんだ思いがそれでした。彼らは偽善的かつ排他的で、狂信的な国民性だと聞いています。


「こんな子どもだましの罠にハマってたまるかっ! 奴らの頭にあるのは利益だけだ、どうせ俺のことを、奴隷商人にでも売り飛ばすつもりだったに違いない。


そもそも、自分の敵を助けるなんてバカなこと、誰がするもんかっ」



兵士は、そう思いました。そして、手にしていた地図を放り投げると、敵兵が指し示した方角とは反対の方へと歩き出しました。


それから3日以上、兵士は歩き続けました。地図も渇きを癒す水も、希望も喜びも、何らの確信もなく……。


辺りはすっかり暗闇に包まれ、兵士の身体は凍えきっていました。彼は立ち止まります。


もう、これ以上、歩くことはできませんでした。


足がもつれ、兵士は冷たい砂の上に倒れ込みます。後悔はありませんでした。やれるだけのことはやった――、彼はそう、自分に言い聞かせます。


そして最後の力を振りしぼり、右手に掴んだそれを、自らのこめかみに押し当てました。



あなたは、この「たとえ話」に登場した兵士のことをどう思われたでしょうか?



「あの状況で地図を投げ捨てるなんて、どうかしてるっ!」
「どうせ歩き出すなら、地図の内容が本当かどうか確かめるべきだった」


と、思われた方も多いのではないでしょうか?

「しかし実際のところ、多くの人は、この兵士と似たような態度を取っている」と私が言ったら、「そんなことはないっ!」とあなたは反発されるかもしれません。



先のたとえ話に登場した「兵士」とは、「私たち」のことです。
この世はある意味、霊的な戦いの場――しかも最前線であり、私たち1人ひとりが、スピリチュアルな兵士と言えるからです。


砂漠」とは、「この世」を表しています。
この世が厳しく、残酷な場所であることは、この記事を読んでくださっている方には、十分すぎるほど分かるはずです。


照りつける日射し」「夜の暗闇」「凍えるような寒さ」は、「この世の艱難」です。残念なことですが、私たちの住むこの世界は、何の憂いも悩みもないような、安寧の場ではないというのが現実です。


」とは、「霊的(スピリチュアル)な糧」を表しています。
私たちは、食べ物だけで自分たちを維持しているのではありません。

何を手に入れても心が満たされないのは、”霊的(スピリチュアル)な食べ物” が不足しているからです。


信じられませんか?

ではなぜ「名声」も「経済的な豊かさ」も手にした多くのミュージシャンや著名人たちが、ドラッグ等に手を出してしまったりするのでしょうか?


人は、一時的に所有できるだけの物質的なものでは、心を真に満たすことはできないのです。


また「敵兵」は、「クリスチャン」を表しています。
はたから見れば、偽善的、排他的、狂信的に見えるかもしれません。


実際に、(自戒も込めて)そういうクリスチャンたちもいるでしょうから、そう言われても仕方がないと思います。


そして、「地図」は「聖書」を表しています。


私もかつてそうだったのですが、ふつう、世の中の多くの人(特に私たちの国において)は、聖書の内容に信憑性があるかどうかなど、詳しく調べたりなんかはしません。

先のたとえ話の兵士のように、はじめからバカにしてしまって、確かめてみようなどと思う人は、極々わずかな人たちだけです。



しかし、もし地図に描かれてあることが正しい情報だったとしたら…… 、

つまり、聖書に書かれていることが正しい情報であったら、その地図をなおざりにした私たちは、たった1度きりの人生において、”取り返しのつかない致命的なミス” を犯したことになります。


聖書について、そして神がいるかどうか確かめもしないで人生をあきらめるということは、


地図を打ち捨てて、見当違いの方向へ歩き出した兵士が力尽き、最後の引き金を引いてしまったのと、本質的には同じことなのです。



【あきらめる前に…】結果によって人生は180°変化する

人生をあきらめる前に聖書を知るべき



ではなぜ、人生を左右してしまう、この最重要事項について、私たちの多くは真剣に確かめてみようとしないのでしょうか?

仏教や神道の方がなじみ深いから、”西洋人の宗教の本” というイメージの強い聖書には、興味が向かないのでしょうか?

(実際にはイェシュア〈イエス〉は東洋人なので、東洋人の宗教なのですが……)



理由はいろいろ考えられると思いますが、私の結論は、

「知らないから」の、ひと言に尽きるのではないかと思っています。


多くの日本人は、この書物について「宗教の本」「道徳的な教えの書かれた本」というイメージを持っているのではないでしょうか?



あるいは「何が書かれてあるのか、まったく分からない」という人も、多いかと思います。

しかし実のところ、聖書とは「預言の書物」なのです。


このブログでも、預言について取り扱っていますが、これを考察してゆくと、「どうもこれは、人が適当に書いた、単なる宗教の本ではないぞ」ということが分かってきます。



では仮に、聖書の内容が真実で、神が存在していたらどうなるでしょう?


あなたが今持っている「価値観」や「死生観」、つまりは、あなたの生き方や人生そのものが180度変わってしまうのではないでしょうか?


私はあなたに断言します。

「あなたは今、絶対に死ぬべきではありません」



あなたは、あの兵士と同じ道をたどってはいけません。


人生をあきらめる前に、私たちと一緒に、聖書が真実かどうか探究してみようではありませんか。その結果がどのようであったとしても、あなたが失うものはなにもないのですから。


しるしは残されている。だがきみはそれをなおざりにしている。だから探したまえ。その価値は十分にある。

『パンセ(上)』  パスカル 著 塩川徹也 訳 岩波文庫


神の存在を探究するにあたっては、聖書ほど優れた書物は他にはないのです。



人生をあきらめたくなってしまう原因

人生をあきらめたいと思っている人に必要な最強の命綱



人はなぜ、もう人生をあきらめてしまいたいと思うのでしょうか?

  • 「何もかもうまくいかない」
  • 「これ以上、生きる意味が見出だせない」
  • 「過酷すぎる運命に、耐えきれない」


あきらめたいと思う理由は人それぞれですが、その根底に共通してあるのは、希望が持てないということなのではないでしょうか?


人生をあきらめたいと思っている人の共通点のひとつは、”最後の一線を超えないよう、命をつなぎ留めておくための命綱” である”希望”が、弱く、か細くなってしまっている点です。



わずかな希望さえあれば、人は前に進んでゆけるものです。

重要な点は、「その希望をどこに、あるいは何においているか」です。


多くの人の場合、その希望とは、「お金」「地位」「名声」「昇進」「恋人」「結婚」「家庭」「夢を叶えること」「ビジネスによる成功」「何らかの欠点の克服」……等、なのではないでしょうか?


最後の「欠点の克服」は、必ずしもそうではありませんが、


上記はすべて一時的に手にできるだけで、世を去る時には手放さなければならない「この世的・物質的」なものです。


しかし、”変転極まりないこの世の希望” とは「一過性」の、ある種「惑わしのようなもの」です。


”世も、世にあるものも愛してはいけない” と聖書は教えており、私たちは、このような「世的なもの」に希望をおくべきではないのです。


本当に、この世に希望はないのでしょうか?

単刀直入に言います。「この世に希望はありません」これが答えなのです。希望が存在しないところに希望を見出そうとするから、落胆するのです。


ですから、何らかの希望を見出しては落胆し、さらに別の新たな希望を見出しては、また落胆…… 、とジェットコースターのような、上がったり下がったりの人生を生きることとなってしまうのです。



「人生をあきらめたい」という思いを打ち砕く真の希望

人生をあきらめたいと思ってしまう私たちを照らす希望の光



私たちが持つべき希望とは、「一時的なもの」ではなく「永続性のあるもの」であり、「物質的なもの」ではなく「精神的、霊的なもの」でなければなりません。

なぜなら、後者のものでなければ、人の心を本当の意味で満たすことはできないからです。


そうであればこそ、ジェットコースターのようなアップダウンの激しい人生ではなく、


優れたサスペンション機能を備えた四輪駆動車のように、悪路であっても、うまく衝撃を吸収しながら走ってゆくことができるのです。


想像してみてください。人生には、さまざまなトラブルや艱難が次々と押し寄せてきます。しかし、あなたの内側に、外部の出来事には影響されない、確固たる希望があったとしたらどうでしょうか?



それはちょうど、海面は防風で荒れ狂っていても、深海では変わらず穏やかな状態が保たれているようなものです。

神に立ち返り、聖書を人生の土台として生きる時、私たちはそのような揺るがされることのない希望を持って生きることができるようになるのです。



居眠りしている羊(右向き)眠れる羊くん
でもさ……世間じゃ、よく「人生、あきらめが肝心」なんて言うよね。




「命を投げ出す」という意味においてのあきらめや、あきらめグセのあることは良くありませんが、ポジティブな意味で人生をあきらめることは、重要な処世訓の1つだと言えるでしょう。


先ほどの「ことわざ」は使い古されたものですが、”この世的なものに希望を持つことをあきらめる” という意味で解釈するならば、叡智のこもった箴言だと言えます。


仏教の方でも「世の中のものに執着しない」ということを重要視していますが、これは聖書の教えとも合致しています。

このように、「もう、人生をあきらめてしまいたい」という思いから脱却するために、私たちは ”世に属する希望” を打ち捨て、”世に属さない希望” を持つ必要があります。



そして、そのための第1歩として、

聖書や当ブログを通して「本当に神はいるのかどうか、ダメ元でとにかく確かめてみるべきだ」と私は提案しているのです。



まとめ


  • たとえ話の中の兵士を反面教師にして、聖書の内容に信憑性があるのかどうか、あなたも確かめてみるべきである。

  • 日本人の多くが聖書に見向きもしないのは、単純に「知らないから」であって、聖書の特に預言について少し調べれば、「これが単なる宗教の本」でないことが分かる。

  • あなたが「人生をあきらめたい」と思うまでに追い詰められてしまったのは、世的なものに希望をおいているからである。

  • 神に立ち返り、聖書を人生の土台として生きる時、私たちは外部のものには揺るがされることのない希望を持って生きることができるようになる。



聖書を信じる羊(右向き)K
外部のものに揺るがされることのない希望を持って生きたい方、また、聖書にすこしでも興味を持たれた方は、ぜひ、下の記事もお読みになってみてください。


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いかがだったでしょうか?

このブログでは、聖書を人生の土台として生きるため「聖書という書物が本当に信頼できるものなのか?」ということを探究しています。

「揺るぎない人生の土台を築きたい」と思われた方は、どうぞ、
当ブログの目的が書かれたページから、この探究の旅へと参加してみてください。

最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

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『私は良い羊飼いです。私は自分の羊たちを知っており、私の羊たちにも知られています。――また私には、この囲いに属していない他の羊たちもいます。私は、彼らも連れて来なければなりません。彼らは私の声に耳を傾けるでしょう。こうして一つの群れ、一人の羊飼いとなるでしょう』                 John 10:14.16(K.J.V + Nagai)


『あなたがたは、迷い出た羊のようでしたが、今や、羊飼いであり、あなたがたの魂の監督者である方のもとへと帰ってきたのです』
                1 Peter 2:25(K.J.V)

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