
このブログでは…… 、
「宗教とは距離を置きつつ、聖書を人生の土台として生きる」
ことを提案しています。
詳しくは「目的のページ」をご覧ください。
今現在、「死にたい」という思いを抱えていらっしゃる方は、以下の記事も合わせて読んでいただくことをおすすめいたします。
»「死にたい、助けて」と心が叫ぶ時、あなたは重要な鍵を手にしている
「魂が打ち砕かれた状態にある者こそが、”本当に大切なこと”を受け取ることができる」
ということを、お伝えしています。
私自身、魂が打ち砕かれたような状態を長年、経験してきました。ですから、「人生にもう疲れた」という人の気持ちが、よく分かります。
しかし、コインの裏表のように、実はその打ち砕かれた状態には、大きなプラスの側面があるのです。そのことを、これからお話していこうと思います。
「聖書」という言葉を聞いて、ほとんどの方が、
「なんだ、宗教の話か」
と拒絶反応を示されたかもしれません。しかし、これから進めていく話は「キリスト教」という宗教の話ではありません。
もし、あなたの方で受け取る準備が整っているのであれば、この記事は、あなたの人生を180度変えるきっかけとなるかもしれません。
では、さっそくはじめましょう。



※栄養素等表示基準値に基づき、脂質・飽和脂肪酸・n-6系脂肪酸・炭水化物・ナトリウム・熱量を除いて、すべての栄養素で1日分の基準値の1/3以上を含む。
人生にもう疲れてしまった時こそが最大のチャンス

あなたは今、生きることに絶望を感じているかもしれません。私もかつてそうでした。
私には、あなたのことを助けてあげられるような力はありませんが、ひとつだけ言えることがあります。それは、
「そこから抜け出す道が存在する」
ということです。
しかもこの道は、非常に多くの人に知れわたっているにも関わらず、鬱蒼と茂る木々におおわれているため、肝心の道の部分が隠されてしまっており、
さらに道へと通じる門があって、誰に対しても開かれているのですが、それでいて見出すものは少ない、という何とも奇妙な道なのです。
見出す者が少ない理由のひとつとして、
”今のところ他の道で何とかやっていけてるため、まだその必要性に気づいていない”ということが挙げられます。
つまり、まだ準備ができていないのです。
そして、そのような人たちの大半が、道を求めることも見出すこともないまま、地上の人生を終えてしまいます。
一方、自分たちの歩いていた道が激しい雨でぬかるみ、土砂でせき止められたり、茨や落石で前に進めなくなったり、
また、道そのものが崩落してしまったような人たちは、そこから抜け出そうと、他の道を探します。
そう、そのような人たちこそが、先の道を見出すのです。なぜなら、こういう人たちには、真の宝を受け取ろうとする準備ができているからです。
この、”確かめることをしない前者の人たち”に対して私は、
「ウソか本当か、一緒に確かめてみましょう」と、このブログを通じて広く呼びかけているのです。
拒絶するのは、あとからでもできるのですから、ともかく一度だまされたと思って、真実かどうか調べてみるべきです。
証拠は彼らの目の前にあるが、彼ら*はそれに目を凝らすことを拒絶する。
『パンセ(中)』 パスカル著 塩川徹也 訳 岩波文庫
「喜びと幸福の中で生きるか?」
「苦しみと後悔の中で生きるか?」
が、この地上にいる間に神に立ち返ったかどうかで決定せられるという、一人ひとりにとってこれほど身近で緊急の一大事が、真実かどうかを探求せずに無関心のまま生きている人々のことを指す。
関連:【しんどい、もう無理】助けを求めるあなたに提案する”究極の逃げ道”
人生にもう疲れた時の「対処法」 + 「NG行動」

人生に疲れたといっても、その理由や原因は人それぞれだと思います。
「仕事に疲れた人」「日々の生活に疲れてしまった人」「人間関係に疲れた人」「恋愛で疲れた人」「身体の不調で疲れてしまった人」等々……。
この記事を読んでくださっているあなたは、もしかしたら、他にもさまざまな記事を読まれたかもしれません。
その際、人生に疲れてしまった際の対処法として、主に以下のような事柄が挙げられていたのではないでしょうか?
”一般的な対処法”【5選】
① 【思考を変える】
- プラス思考でとらえるようにする。
- 自分のマイナスの思考の癖に気づく。
- 完璧主義を捨てる。
- ”ありのままの自分”を受け入れる。
- 自己肯定感を強める。
- 成功体験を積み重ねる。
- 価値観や人生観を変える。
② 【環境を変える】
- 転職する。
- 引っ越す。
- 部屋の模様替えをする。
- 海外へ行ってみる。
- 新しく趣味をはじめる。
- ひとり旅に出る。
③ 【リラックスする】
- アロマを取り入れる。
- ストレッチをする。
- 瞑想する習慣をつける。
- 呼吸法を用いる。
- 十分な睡眠を確保する。
- ゆっくりとお風呂に入る。
- 適度な運動をする。
④ 【外部から勇気やなぐさめをもらう】
- ”人生に疲れた際におすすめの本”を読む。
- ”人生に疲れた際におすすめの歌”を聞く。
- ”人生に疲れた際におすすめの映画”を観る。
- ”人生に疲れた際におすすめの名言”を読む。
⑤ 【自分の気持ちを外へ出す】
- 思い切って親に打ち明けてみる。
- 信頼の置ける友人に相談してみる。
- カウンセリングを受けるなど、専門医に話を聞いてもらう。
「対処療法」では人生の疲れは癒せない
楽に生きる考え方というものは、確かにありますし、思考が変わらなければ、大きな変化は期待できないでしょう。
環境を変えることも役に立つかもしれません。
ことに現代のストレス社会においては、リラックスすることも大切です。
1冊の本や、1本の映画がきっかけとなって、その後の人生が大きく変化することもあるでしょう。
また、自分の気持ちを人に聞いてもらうだけでも、だいぶ楽になるものです。
では、あなたは変われましたか?
上記のような工夫を生活に取り入れることによって、「人生に、もう疲れた」という気持ちを、完全に乗り越えることができましたか?
少なくとも、私にはできませんでした。
しかし、できなかった人たちは幸いです。
なぜなら、そのような人たちは”受け取る準備が整っている人たち”だからです。
「思考を変えろ」と言われて、いったいどれだけの人たちが変えられたのでしょうか?
はじめの内はプラス思考を意識していても、気がつくと、いつの間にかもとの思考にもどってしまっている人が大半なのではないでしょうか? 意思が弱かったのか、私は何度やってもそうでした。
環境を変えようと、私はこれまで5回も転居しました。
そして、大抵そのたびに、心機一転しようと転職もしました。
気分転換にはなりましたが、肝心の部分は何も変わりはしませんでした。
それもそのはずです。私がどこに住もうが、どこでどんな仕事をしようが、問題を生み出している根本の「心」が、私にピッタリと付いてまわるのですから。
これは飽くまでも私の経験をもとにした個人的な意見ですが、
上記のような方法は、対処療法的な一種の”ごまかし”に過ぎず、粉砕骨折しているのに湿布や鎮痛剤で治そうとしているようなものなのではないかと思うのです。
そのような場合は、「信頼の置ける専門医」に診てもらい、私たちは適切な処置を受けるべきなのです。そうしてこそ、湿布や鎮痛剤も大いに役に立つのです。
そして、この「信頼の置ける専門医」に当たる存在こそが神なのです。
あなたが「人生にもう疲れた」という思いを根源的に乗り越えるには、この ”隠された道” を見出す以上に優れた方法はないのです。
人生に疲れた際の”NG行動”【10選】
- 立ち止まったり休んだりするどころか、無理をし、がんばり続ける。
- 大丈夫な自分を演じる。
- 自分を責める。
- 他人と比較する。
- 人や物に怒りをぶつける、八つ当たりする。
- お酒に逃げる、食べることでストレスを解消する等、暴飲暴食に走る。
- ドラッグに手を染める。
聖書的な見方を踏まえ、さらに私はここへ、以下を付け加えたいと思います。
- 性欲に溺れる。
- 占いや霊媒師の類に依存する。
- 死ぬことで問題を解決しようとする(死ねば楽になれるという結論を出す)。
聖書では、悪い霊たちの影響を受けてしまう”3つのチャネル” として、
「肉の欲」「目の欲」「暮らし向きの自慢」が挙げられています。
性欲は、1番目の「肉の欲」にあたりますが、これに溺れてしまうことによって、悪い霊たちの影響下に自らをさらすこととなってしまうのです。
この記事を読んでくださっている方の中には、今現在、深いうつ状態にあったり、「死にたい」と思われている方もいらっしゃるかと思います。
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人生に嫌気が差し、「もう嫌だ、いっそ何もかも終わらせてしまおう」という衝動に駆られた時には、どうか思い出してください。
深い闇の経験をしているあなたのような人にこそ、本当に大切なこと(= 聖書の真実)を受け取る準備ができているのだということを。
これは、誰もが受け取れるものではないのです。
あなたが人生に疲れてしまった真の原因

あるひとりの中学生が、事故で一部の記憶を失ってしまいました。
その子は自分の荷物をまとめると、家を出て公園で暮らしはじめます。気の毒に思った友人たちは、彼に言いました。
「親のところへ帰った方がいいよ。こんな暮らしをしてたら凍え死んでしまうよ」
その子は言いました。
「心配してくれてありがとう。でも、僕には親なんていないし、そもそも親なんて必要ないんだ」
友人たちを傷つけまいと、彼はできる限り、その忠告に感謝している風をよそおいましたが、心のなかではこう思っていました。
(かわいそうに……。こいつら、本気で親がいるなんて信じてるのか? 親に頼って生きるなんて弱い奴らのすることだ。俺はアイツらと違って自分ひとりでも生きてゆけるんだ)
たとえ、親の記憶を失っていたとしても、友人たちの忠告に耳をかたむけ、家へ戻るべきだったのではないでしょうか?
そうすれば、昔の写真や手紙、メール等、親とのつながりを示すものに触れてゆく中で、親の記憶を取り戻すこともできたかもしれません。
親に背を向け、その存在を否定し、その保護から離れ、差し伸ばされた手を拒絶する子を、あなたはどう思われますか?
神に背を向けて生きている状態とは、まさにそのような状態なのです。
身の回りのことをすべて自分でこなし、親の援助も受けられず、相談することも忠告を受けることもできず、生活費も自ら稼ぐような生活を彼が続けてゆくとしたらどうでしょう?
生きることに疲れてしまうのは当然だと思いませんか?
これが、私たちが生きることに疲れてしまうことの、根源的な理由なのです。
”自分の力だけで生きてゆける”という思いほど、高ぶった思いはありません。
聖書では、この「神に背を向けた状態」のことを「罪」と呼んでいます。
逆に、自分の力で生きてゆくことになまじ成功してしまう人たちも大勢います。世の中の多くの人たちが、これに当たります。
そのような人たちは、神に立ち返る機会をより一層失い、気力も体力も衰えた老年になってはじめて、自分の内に、何か満たされない空虚感のようなものがあることに気づくのです。
先ほどの「たとえ」で言えば、あの少年が何らかのビジネスに成功し、贅沢三昧の暮らしを手に入れたようなものです。
そのような状況になれば、彼が親に思いを致すなど、どうしてできるでしょう?
聖書の中にも、「人は金と富の両方に仕えることはできない。かならず、人はどちらか一方を重んずるものだ」ということが書かれています。
このような意味において、社会的、経済的に成功することは、必ずしも幸せなこととは限らないのです。
人生にもう疲れた… | あなたを呼び戻すための苦肉の策

「なぜ、私だけがこんな苦しい思いを……」と、あなたは思っているかもしれません。
以前の私は、そうでした。
「まわりにいる人たちは、どうしてあんなに器用に生きてゆけるのだろう」
「みんなが当たり前のようにできることが、どうして私にはできないのだろう」
と、憤りと不甲斐なさ、そして戸惑いが、ない交ぜになったような気持ちを抱えてずっと生きてきました。
あなたは「自分がダメな人間だから」とか、「運が悪いから」等、現在の自分の状況を、”否定的なマイナスの理由” と結びつけて考えているかもしれません。
しかしこれは、神の恵みでもあるのです。
そうでもしなければ、あなたを呼び戻すことができないからです。
今のあなたには、信じられないかもしれませんが、どうか忘れないでください。
神はあなたのことを見捨てられたのではなく、大切なあなたのことを必死で呼び戻そうとされているのです。
人生にもう疲れた… |全ては究極の2択にかかっている

”神は存在するかどうか ”、すべてはこの1点にかかっています。
もし、聖書の記述が真実で、神が本当にいるのであれば、あなたは神に立ち返ることで、現在あなたを苦しめている闇に打ち勝てるからです。
部屋の明かりをつければ闇は消えてしまうように、
光のもとでは、闇は存在できないのです。
つまるところ、”聖書の記述が真実であるか否か”、これによって私たちは、神が存在するかどうか判断できると言えます。
これは宗教ではありません。すべての人が取り組まなければならない「人生の根底にある大切な問題」であり、1人ひとりが自分自身で判断すべき事柄なのです。
この問題を棚上げして、あやふやにしておいてはいけません。
”その結論によって、あなたの考え方や、生き方そのものまでもが、まったく違ったものになってしまう、人生で最も大切な問題” なのですから。
関連:人生をあきらめる前に、あなたが確かめるべき、たった1つのこと
その探究の一助になれれば、という思いで私はこのブログを立ち上げました。
先ほど挙げたように、心と身体のメンテナンスをすることももちろん大切です。
しかし、この「神の問題」を先延ばしにしていては、根本的な苦しみの解決にいたることは、ありえないのです。
もし、今の苦しみから真剣に抜け出したいのであれば、あなたは聖書の探究を通して、神がいるのかいないのか、どちらかに賭けなければなりません。
要するに、クリスチャンとは、”聖書を通して、神がいることを確信し、神がいる方に賭けた者たち” なのです。
クリスチャンであったニュートンは言います。
太陽、惑星、彗星から成る極めて美しい天体系は、知性を有する強力な実在者の意図と統御があって、はじめて存在するようになったとしか言いようがない。
アイザック・ニュートン『プリンキピア』
彼は、一般に物理学者、数学者、天文学者などとして知られていますが、実は、聖書を研究した著作なども執筆しています。
並外れた知性をそなえ、論理的に物事を考える科学者であった彼が、なぜ、証明もできないような神の存在など信じていたのか?
彼もまた、聖書を調べた結果、神の存在を確信していたからに他なりません。
では最後に、同じく科学者であり、クリスチャンでもあったパスカルの言葉に耳を傾けて終わりにしましょう。
(略)「神は存在するか、しないかのいずれかだ。」しかし私たちは、どちらのほうに傾くだろう。理性はここでは何も決定できない。無限の混沌が私たちを隔てているからだ。
この無限の距離の彼方で、丁が出るか半が出るかの勝負が行われている。きみはどちらに賭けるのか。理性に従えば、きみはいずれの側にも賭けられない。理性に従えば、きみはどちらも擁護できない。
(略)きみはもう乗船しているのだ。そこで、どちらを取るのか。さあ見てみよう。選ばなければならないのだから、どうすればきみの利益をできるだけ損なわずに済むか、考えてみよう。
(略)きみの幸福はどうか。神が存在するほうを選んだとして、損得を秤にかけてみよう。次の二つの場合を計算しよう。きみは、もし勝てば、すべてを獲得する。もし負けても、何も失うものはない。だから迷うことなく、神がいるほうに賭けるべきだ。
(略)勝負を余儀なくされたとき、今すぐにも虚無を失うか、あるいは無限の利得が手に入るかもしれないのに、命を危険にさらさずに温存しようというのは、狂気の沙汰である。
(略)断言しよう。きみは今生で勝負に勝つ。そしてこの道を一歩一歩進むにつれて、利得がどれほど確実か、きみが賭けるものがどれほど無に等しいかが見えてくる。
それで、ついにはきみ自身、自分では何の賭金も出さずに、確実で無限なものを目指して、賭けを行ったことを悟るだろう。
『パンセ(中)』 パスカル 著 塩川徹也 訳 岩波文庫
もしも神の存在に賭けて、それが当たっていれば、永遠の幸福が得られる。もし外れたとすれば、間違いは犯すが、何も失わない。
なぜなら、この場合には、死後に待ち受けているのは虚無であるが、虚無が誤りに対して何らかの償いあるいは罪を科すことはありえないのだから。
シャロンも次のように述べている。
「要するに、神と摂理を信じることには、最悪の場合でも、いささかの危険もありえない。なぜなら、たとえそれで間違えたとして、どんな不幸が到来するというのか。
私たちを見守る至上の存在、死後になってその前に出頭して申し開きをしなければならない至上の権威がいないとしても、誰がそのことについて私たちを後悔させることができるのか」
(『三つの真理』第一書一二章)
同書 断章418の注釈(13)より引用。
賭けは、儲けの期待値(儲けの額とそれが実現する確率の積)と賭金が等しければ公平であり、期待値のほうが大きければ有利である。
(略)しかし「永遠の生と幸福」が得られるのなら、期待値は無限で、賭金を無限に上回るので賭けないのは常軌を逸することになる。
同書 断章418の注釈(14)より引用。
まとめ
- 絶望から抜け出す道が存在しており、魂の打ち砕かれた者にこそ、その道を見出すことができる。
- 一般的な「人生に疲れた際の対処法」では、根源的な問題を解決することはできない。これを乗り越えるには、”隠された道(神の道)”を見出す以上に優れた方法はない。
- ”神から離れて生きていること”、これが、私たちが生きることに疲れてしまうことの、根源的な理由。
- 神はあなたのことを見捨てられたのではなく、大切なあなたのことを必死で呼び戻そうとされている。
- ”神は存在するかどうか――”、すべてはこの1点にかかっている。あなたが今の苦しみから真剣に抜け出したいと思っているのあれば、神がいるのかいないのか、どちらかに賭けなければならない。
いかがだったでしょうか?
このブログでは、聖書を人生の土台として生きるため「聖書という書物が本当に信頼できるものなのか?」ということを探究しています。
「揺るぎない人生の土台を築きたい」と思われた方は、どうぞ、
当ブログの目的が書かれたページから、この探究の旅へと参加してみてください。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
この記事では…… 、「生きていくのが辛い、と感じている人こそ聖書を読んでみるべき」ということについて、お伝えしています。 「生きていくのが辛い」と感じる時、まわりの人たちが皆、幸せそうに[…]