
ああ、物分かりが悪く、心が鈍く
預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、
メシアはこういう苦しみを受けて、
栄光に入るはずだったのではないか。
マタイによる福音書 24:25~26(新共同訳)

~ 聖書は信じるに値するか? No.10 ~
「メシアの受難が預言された『イザヤ書53章』とは?」
「イザヤ書53章を突きつけられた、あるユダヤ人の反応」
について、お伝えしています。
前回、私たちは「メシアの誕生」に関する預言について、見てみました。
参考:『メシア誕生の時期を預言する、ダニエル書70週の預言』
今回は逆に「メシアの死」に関する預言を見てみたいと思います。
「彼の死と受難」について記された重要な預言である「イザヤ書53章」について。
・後半では……、
『ナザレのイエスは神の子か?』という書籍をもとに、イェシュアを激しく嫌う1人のユダヤ人が、この「イザヤ書53章」の存在を知って困惑しつつも、次第に彼をメシアとして受け入れていく、という「証」に注目してみたいと思います。
では、出発しましょう。
まだ午前9時だというのに、森は薄闇に包まれ、激しい雨と暴風が私たちの歩みを阻みます。
そう言えば、彼が十字架につけられたのも、ちょうどこの時刻でした……。
雨の雫が、けたたましく枝葉に打ち付ける狂騒の中、咆哮のような雷鳴が体中に響き渡ります。
身を隠せそうな樹洞が見つかるまで、前に進むしかなさそうです。さあ、急ぎましょう。



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ラビたちは絶対に認めない | メシア受難を予告する「イザヤ書53章」

【受難が記された53章】イザヤ書とは?
全66章からなる「イザヤ書」は、旧約聖書内に収録された書で「エレミヤ書」「エゼキエル書」と共に、3大預言書の1つとして数えられています。
BC(紀元前)8世紀ごろ、南の「ユダ王国」にて活躍した預言者。イザヤの生きた時代は、南の「ユダ王国」の人々が「バビロン捕囚」される100年以上前、ちょうど北の「イスラエル王国」が滅んだ時代に当たる。ちなみに「イザヤ」は、ヘブライ語で「神が救う」の意味。

【目を背けるラビたち】イザヤ書53章=彼らには不都合な章!?
ユダヤ教の人々が、イェシュアをメシアとして認めないどころか嫌っているという話は、これまでにも何度かしてきました。
冷静に、且つ客観的に読んだ場合、私たちクリスチャンからすると、この「イザヤ書53章」の記述は、イェシュアについて語っているように思われるのですが、ラビたちは決して、そのような解釈は認めません。
「ラビ」とは、ユダヤ教において、指導的な立場にいる人たちのことを指します。
以前、モトイトクメイさんの動画で聞いたところによれば……、
この章が、あまりにもイェシュアの生涯に合致していることから、彼をメシアと認めたくないユダヤ教のラビたちは、頭を悩ませてきたと言われているのだそうです。
そのため、ユダヤ人たちの会堂である「シナゴーグ」では毎週、安息日(土曜日)に旧約聖書が1章ずつ読まれるのですが、
この「イザヤ書53章」だけは飛ばされ、読まれることがないのだと言います。
このことから、ユダヤ人の中には「イザヤ書53章」の存在すら知らない者もいるのだそうです。
このことは、記事の後半で紹介する、ラピディス氏の話からも分かることです。彼も、この「53章」の存在について知らなかったことを証言しています。
イザヤ書53章 | 本文(Strong’s King James Version)


”突然「視点人物」が切り替わる”という特徴があるので、こんがらがらないように気をつけてね。

1 私たちの伝えたことを、誰が信じただろうか。
主の御腕を、誰に示しただろうか。
2 彼は苗木のように、乾いた地から出た根のように、
彼の御前に育つであろう。
彼には姿も、顔立ちの良さもない。
私たちが彼を見る時、私たちが望むような美しさは、彼にはない。
3 彼は人々から軽蔑され、拒絶される。
苦痛の人であり、病を知っていた。
私たちは、彼からその顔を隠した。
彼は軽蔑され、私たちは彼のことを尊重しなかった。
4 それにも関わらず、彼は、私たちの病を担い、
私たちの苦痛を負った。
けれども私たちは、彼が神に打たれ、罰せられ、
苦しめられているのだと思った。
5 しかし彼は、私たちの罪の為に刺し貫かれ、
私たちの不正の為に砕かれた。
私たちの平和の懲罰は、彼の上にあり、
彼の鞭打ちの故に、私たちは癒やされた。
6 私たちは皆、道に迷った羊のよう。
それぞれ、自分の道へと向かっていた。
主は、私たちのその全ての不正を、彼に科した。
7 彼は抑圧され、汚(けが)されても、その口を開かなかった。
屠(ほふ)られる子羊のように、
毛を刈る人の前で物を言わぬ羊のように、彼は連れて行かれる。
そのように、彼は、その口を開かない。
8 彼は、牢獄と裁判から連れて行かれた。
彼の世代の、誰が深く考えたであろう。
彼が、生ける者の地から切り離されたことを、
我が民の罪のゆえに、彼が打たれたことを。
9 彼の死において、その墓は悪しき者と共に、
また、富める者と共に造られる。
彼は不正を成すことなく、その口には、偽りも無かった故に。
10 彼を打ち砕くことは、主が望まれたこと。
主は、彼のことを弱くされた。
あなたが彼の魂を罪の為の捧げ物とする時、
彼はその子孫を見、彼の日々を長くするであろう。
そして、主の大いなる喜びは、彼の手において栄えるであろう。
11 彼の魂の、その苦しみを見て、彼は満足されるであろう。
彼の知識により、我が義なる下僕(しもべ)が、
多くの者を義とするであろう、
彼が、彼らの不正をその身に帯びるが故に。
12 それゆえ私は、彼に(相続分を)豊かに分配し、
おびただしい数の戦利品を分配するであろう。
なぜなら、彼は死に至るまで、その魂を注ぎだしたのだから。
彼は、罪人たちの1人として数えられた。
彼は多くの罪を負い、罪人たちの為に執り成しをした。
イザヤ書 53:1~12(旧約聖書)
「イザヤ書53章」が示す、メシアの受難と栄光


- メシアが、イスラエルの民から拒絶されること。
- メシアが、私たちの「背き・咎(とが)」のために刺し貫かれること。
- 神が私たちの罪を、すべてメシアに負わせること。
- メシアが捕らえられ、裁きを受けて命を取られること。
- メシアの墓は悪人と共に、また、富める者と共に造られること。
- 神の望まれた計画が、メシアの手によって成し遂げられること。
- メシアは多くの人が正しい者とされる為に、彼らの罪を自ら負うこと。
- メシアの月日が長くなること(復活を示唆)。
- メシアが、おびただしい数の戦利品を受けること。
ユダヤ人は彼をメシアとして受け入れまいとして殺したが、そのことによって彼にメシアとしての究極のしるしを与えた。そして彼を否認しつづけることを通じて、非の打ちどころのない証人となった。そして彼を殺し、彼を否みつづけることによって、彼らは預言を成就した。
『パンセ(中)』 パスカル 著 塩川徹也 訳 岩波文庫
【イザヤ書53章】メシアは”刺し貫かれる”
5 しかし彼は、私たちの罪の為に刺し貫かれ、
私たちの不正の為に砕かれた。
イスラエルの伝統的な処刑法は「石打ち」です。
ところが②で示したように、5節にて、メシアは「刺し貫かれる」と預言されています。
実際には、ローマの目をかいくぐって、慣習的に「石打ち」は行われていたようですが、大勢の民衆に支持されていた、イェシュアのような人物に対しては、おおやけに「石打ち」を執行することはできなかったはずです。
注目すべき点は、彼が処刑される700年以上も前に記された書に、伝統的な「石打ち」ではなく、まるで「十字架刑」を連想させるような預言がなされている、という点です。
もし彼が「石打ち」によって殺されていたならば、この53章の、” 刺し貫かれる” という預言と合致しなくなり、彼がメシアだとする主張は、たったこの1点によって、音を立てて崩れていたことでしょう。
このように、旧約内に預言されたメシアの条件を、ことごとくクリアした人生を歩むということは、とてつもなく狭き門であり、
現在にいたるまで、その条件をクリアしていると考えられる人物は、人類史上、ただイェシュア1人だけなのです。
【イザヤ書53章】メシアは裁判にかけられ、命を絶たれる
8 彼は、牢獄と裁判から連れて行かれた。
彼の世代の、誰が深く考えたであろう。
彼が、生ける者の地から切り離されたことを、
我が民の罪のゆえに、彼が打たれたことを。
この8節には、メシアが拘束されること、そして裁判にかけられ、生ける者の地から切り離されること、つまり、命を絶たれてしまうことが預言されています。
しかもその世代の人々は、彼の死について、深く考えることはないことも示唆されています。
福音書によれば、夜になって拘束されたあとイェシュアは、最高法院において、ラビたちによる不当な裁判にかけられたことが記録されています。
また、彼が実際に十字架につけられたのは、捕らえられた翌日の、午前9時であったことが記されていますので、それまでの間、牢獄に入れられていたことでしょう。
さらに彼は、十字架につけられる前にローマの総督のもとへと連れて行かれ、そこで再び、裁判にかけられています。
「偽預言者」として裁判にかけ、自分たちの手で死へと追い込んだ人物が、まさか、長年待望していた「メシア」であったなど、当時のユダヤ人たちの大半は、考えもしなかったに違いありません。
【イザヤ書53章】その墓は悪しき者・富める者と共に造られる
9 彼の死において、その墓は悪しき者と共に、
また、富める者と共に造られる。
彼は不正を成すことなく、その口には、偽りも無かった故に。
⑤の預言は、イェシュアが「2人の罪人」と共に十字架につけられ、富める者であった「アリマタヤのヨセフ」が所有していた墓に葬られたことの預言だと、一般に解釈されています。
【イザヤ書53章】メシアの月日は長くなる
10 (前略)
あなたが彼の魂を罪の為の捧げ物とする時、
彼はその子孫を見、彼は、その月日を長くするであろう。
そして、主の大いなる喜びは、彼の手において栄えるであろう。
8~9節を見ると、メシアの死が明言されています。にも関わらず、10節では「あなたが彼の魂を罪の為の捧げ物とする時、彼はその子孫を見、彼は、その月日を長くするであろう。」とあることから、
命を絶たれたメシアが再び生きるようになる、つまり”復活が示唆されている” と、考えることができます。
とは言え、復活などと言われても、ばかばかしいと思われることでしょう。
しかも、イェシュアが生前、弟子たちに復活することを伝えていたのにも関わらずにです。
参照:マタイ26:32・マルコ9:9~10・ルカ18:33
また、「その子孫」とは、彼(メシア)と霊的につながった者たち、
つまり「クリスチャンたち」のことだと解釈できます。

※ 参照:ガラテヤ 3:29

【イザヤ書53章】メシアは、おびただしい数の戦利品を受ける
12 それゆえ私は、彼に(相続分を)豊かに分配し、
おびただしい数の戦利品を分配するであろう。
なぜなら、彼は死に至るまで、その魂を注ぎだしたのだから。
「おびただしい数の戦利品」とは「クリスチャンたち」のことだと解釈できます。
実際、イェシュアはその死後、彼のことを信じ、メシアとして受け入れる、おびただしい数の人々を受けました。
イェシュアを嫌うユダヤ人が「イザヤ書53章」の存在を知った時……


ユダヤ人でありながらイェシュアをメシアとして信じている、いわゆる「メシアニック・ジュー」。
かつては、根っからの「キリスト教懐疑主義者」であったが「イザヤ書53章」との出会いをきっかけに、イェシュアに対する見方が変わってゆき、のちに牧師となる。その後、米国内にある15のメシアニック・ジューの集会を結ぶネットワークを統括する。

《 目次 :ラピディス氏の証 》
①【ユダヤ教に対する不審】

彼は過去の自分を振り返って語ります。
「(略)イエスに対する私の印象というのは、カトリック教会から来るものでした。十字架、いばらの王冠、その頭から流れる血、刃が突き刺さった後のわき腹。全然わかりませんでした。
どうして手や足を釘で打たれて十字架にかかっている男を礼拝するんだろうって思いましたよ。
イエスがユダヤ教と関係があるだなんて思ったことはありませんでした。イエスは異邦人の神だと思っていましたから」
『ナザレのイエスは神の子か?』
リー・ストロベル著 いのちのことば社

「実は、新約聖書を初めて手渡されたとき『これは反ユダヤのガイドブックみたいなものに違いない』と思いました。
ユダヤ人を嫌う方法、ユダヤ人を殺す方法、ユダヤ人を大量虐殺する方法などなどが書いてあって、アメリカのナチ党派の人が喜んでガイドブックに使うのだろうと思っていました」
『ナザレのイエスは神の子か?』
リー・ストロベル著 いのちのことば社
両親が離婚した際、当時、まだユダヤ教徒であった17歳の彼は、以下のように思ったと言います。
「宗教があったところで、それは両親の離婚を止めることができなかったではないか。日常レベルで人々のことを救えなくて、何が良い宗教だろうか……」
②【戦争経験と東洋宗教への傾倒】

さらに1967年、ベトナム戦争に招集された彼は、多くの苦しみ、死体の山、戦争による荒廃を目の当たりにし、
また、反ユダヤ主義に遭遇したこともあってか、
ユダヤ教から離れ、いつしか東洋の宗教へと傾倒してゆくようになります。
日本駐屯中の彼は、東洋哲学の本を読み、寺にも足を運んだそうです。
「自分が見てしまった悪しきものに苦しめられ、悩まされていました。そして、信仰がその悪しきものをどう処理するのかを考え、その方法を探そうと必死になりました。
当時の私は、『神が本当にいるなら、シナイ山の神だろうが、富士山の神だろうが、信じてやるよ』とよく言ったものですよ」
『ナザレのイエスは神の子か?』
リー・ストロベル著 いのちのことば社

ベトナム戦争から帰国後、彼は僧侶になるべく、自己否認と禁欲的な生活を送るようになるも上手くゆかず、線路に飛び込むことが答えなんじゃないかと思ったこともあったと語ります。
また当時、マリファナ常習者であった彼は、LSDにも手を染めていたそうです。
③【精神的探求と東洋宗教への失望】

当時を思い出しながら、ラピディス氏は語ります。
「仏教の会合に行きましたが、そこには何もありませんでした。
中国仏教は無神論、日本仏教は仏像礼拝、そして禅仏教は漠然として、つかみ所がなさすぎました。
サイエントロジーの集会にも行ってみましたが、彼らもごまかしと管理主義に明け暮れるだけの人たちでした。
ヒンズー教は、いわゆるどんちゃん騒ぎを信仰としていて、このどんちゃん騒ぎは神がなさるもので、パーティーのホストであるその神は青い像だというのです。
どれもこれも、まったく意味がないと思いましたよ。満足できるものは、一つもありませんでした」
『ナザレのイエスは神の子か?』
リー・ストロベル著 いのちのことば社

日本では信じられないかもしれませんが、欧米では、実際にそういった存在を崇拝している人たちが存在します。
そういったものに触れ、
「そこで起きる様々なことを見て、ここに何かがあることは間違いないが、それは善的なものじゃないと思いました」
と語るラピディス氏。
④【メシア預言と、ついに訪れた転機】

歩道で活動を行っていたクリスチャンのグループに出会ったラピディス氏は、
「こんな奴ら、俺が説き伏せてやる」
と、これまで自身が学んできた東洋哲学の知識を、彼らにぶつけはじめました。
「俺たちが神なんだ。俺も神。あんたも神だ。それがわからないようじゃ駄目さ」
そして、彼らとやり取りする中で、グループの1人がイェシュアの名を口にします。
「俺はユダヤ人なんだよ。イエスなんか信じられるか」
と、やり込めようとする彼に、
牧師が、その後の彼の人生を変えてしまう重要な質問を投げかけたのです。
「あなたは、メシヤに関する預言をご存知ですか」
この言葉に、ラピディス氏はふと緊張の糸がほぐれた。
「預言? そんなもの、今まで聞いたこともない」
すると牧師が旧約聖書の預言をいくつか引用し、ラピディス氏を驚かせた。
ちょっと待てよ! こいつが話しているのは、俺たちユダヤの聖典じゃないか。なんでその中にイエスがいるんだ!
牧師に聖書を渡されたラピディス氏は、それでも疑う気持ちを崩さなかった。「ここに、新約聖書も入ってるのか」
牧師がうなずく。
「よし。旧約聖書だけは読んでやる。もう一つのほうは、開きもしないぞ」
牧師の答えに、彼は驚いた。
「構いませんよ。旧約聖書を読んで、イスラエルの神であるアブラハム、イサク、ヤコブの神に、イエスがメシヤかどうかをはっきりと見せてくれるようにお願いしてみてください。イエスは、本当にメシヤなのですから。イエスが来たそもそもの目的は、ユダヤ人のためです。しかし同時に、彼は世界全体の救い主でもあったのです」
『ナザレのイエスは神の子か?』
リー・ストロベル著 いのちのことば社

† 求めなさい。そうすれば与えられます。
探しなさい。そうすれば見つかります。
たたきなさい。そうすれば、あなたがたに開かれます。
誰でも求める者は受け、探す者は見つけ、
たたく者には開かれるからです。
ルカによる福音書 11:9~10(新約聖書)

⑤【氷解する「偏見」と「誤解」】

たとえば「申命記」によれば、モーセは、
「やがてイスラエルから私と同じような預言者が立てられるので、彼に聞き従わねばならない」
と預言しました。
また、イェシュアと同じ、新約の時代に現れた預言者である”バプテスマのヨハネ” でもないことは、
「あなたは、(申命記でモーセが語っている)あの預言者なのですか」
との質問に、ヨハネ自身が「そうではない」と答えていることからも明らかです(ヨハネによる福音書1:21)。
したがって、モーセが語った「わたしのような預言者」とは、来たるべきメシアである、イェシュアその人を指していたと言うことができます。
そしてこのことは、イェシュア自身も以下のような言葉で認めているのです。
† あなたがたがモーセを信じていたのであれば、私のことも信じていたであろう。彼は、私のことを書いたのだから。
ヨハネによる福音書 5:46(新約聖書)

イェシュアが誕生する”700年ほど前” に書かれたこの書物には、イスラエルの罪のため、さらには「異邦人」である私たちの罪のために受難するメシアの姿が記されていました。
彼は、この「イザヤ書53章」で預言されている人物が、ナザレのイェシュアであることをすぐに理解します。
理解力の目が開かれ、自分たちが毛嫌いしていたイェシュアこそが、自分たちの罪を負い、その罪のために刺し通されたメシアであったことに気づいたのです。
⑥【そして、新約聖書へ……】

ごまかされていた! それまで自分は、キリスト教徒が旧約聖書を書き換えたと信じていた。彼らがイザヤの言葉をねじ曲げて、あたかもイザヤがイエスの存在をすでに見たように書き換えたのだと信じていたのだ。
しかし今、自分がごまかされていたという思いを前に、彼はその是非をはっきりさせる決心をした。
「義母に頼んで、ユダヤ教の聖典を送ってもらったのです。そうすれば、自分ではっきり確認できますから。義母から送られてきたユダヤ聖典に何て書いてあったと思いますか。まるっきり同じことですよ! これで私はこの問題について、腰を据えて取り組まなければならなくなりました」
『ナザレのイエスは神の子か?』
リー・ストロベル著 いのちのことば社
旧約聖書の中に見出した、いくつものメシア預言が、彼のかたくなな思いを溶かしていき、彼はついに新約聖書の最初のページだけ読んでみることにします。

「そのまま福音書を読み進めました。そしてこれは、アメリカのナチ派が使うハンドブックではなくて、イエスとユダヤ社会とのかかわりを書いた本であることに気づいたのです。
それから、使徒の働きを読みはじめてまた驚きましたね! ここではどうすればイエスの話を異邦人に伝えられるか、その方法をユダヤ人が必死に探り出そうとしているのです。これじゃまったく話が逆じゃないか! と思いました」
『ナザレのイエスは神の子か?』
リー・ストロベル著 いのちのことば社
旧約聖書に散りばめられた数々のメシア預言が、イェシュアの生涯において成就している事実を知った彼は、イェシュアが預言されていたメシアであると信じはじめたのでした。
⑦【神の陣営への帰参】

ユダヤ人が「イェシュア」を受け入れた場合、ユダヤ社会から追放されたり、あるいは、家族や親族から縁を切られることもあるのだそうです。
そこまで、彼らがイェシュアを拒絶する理由は…… 、
- 「イェシュア」=「偽預言者」という強固な刷り込みが、2000年近くにわたって成されているため。
- 「メシアを磔(はりつけ)にした民族」だとして、クリスチャンたちが長い間、ユダヤ人のことを迫害してきた歴史があるため。
などが、挙げられます。
もちろん、ユダヤ教徒といっても「熱心な人たち」から「世俗的・形式的な人たち」まで、さまざまなレベルの方たちがいることでしょう。
とは言え、ユダヤ社会の人々が「イェシュア」をメシアとして受け入れるということは、相当の覚悟がいることなのだと思います。
その後、”イェシュアがメシアであることを完全に受け入れる者”、
つまり「クリスチャン」となるべきか否か葛藤し続けていた彼は、ある日、友人たちとモハーベ砂漠に訪れます。
そしてあの日、路傍で出会ったクリスチャンに言われた
「神の側につくか、サタンの側につくか、道は2つに1つしかないのです」
という言葉を思い巡らしていた彼は、以下のように祈ったそうです。

「神様。この葛藤、この苦しみにも終わりを告げなければなりません。イエスはメシヤかという疑いを超えて、それ以上のものを知る必要があります。私はあなたを知る必要があるのです。イスラエルの神であるあなたは、その事実を私に信じてほしいと思っているのですよね」
――ラピディス氏の話が止まった。次に起こったことをどう話そうかと考えているようだった。そのまましばらく時間が経つ。そしてついに氏の口が開いた。
「次に起きたことを説明すると……。『神が客観的に私の心に語りかけた』と表現するのが一番正しいでしょう。神は、彼が存在するという事実を経験的に私に知らせたのです。
砂漠のはずれで、私は『神様。私はイエスを私の人生の中に受け入れます。イエスとどうかかわったらよいのかはわかりませんが、でも私にはイエスが必要です。これまでずいぶんとひどい人生を送ってきました。どうかこの人生をあなたが変えてくださいますように』と祈りました」
『ナザレのイエスは神の子か?』
リー・ストロベル著 いのちのことば社
その後、「暗い戦争の経験」や「麻薬」等によって荒んでいた生活は変わっていき、やがて、同じ「メシアニック・ジュー」であるデボラさんというパートナーにも巡り会います。
彼女の通っていた教会に同行してみると、その教会の牧師は、数ヶ月前、路傍で彼に「旧約聖書」を読むようにとすすめた、まさにその人であったそうです。
「教会に入ってきた私を見て、牧師は開いた口がふさがらないって感じでしたね」そう言って、ラピディス氏は笑った。
『ナザレのイエスは神の子か?』
リー・ストロベル著 いのちのことば社

まとめ
- イザヤ書は、伝統的にBC8世紀ごろ活躍した「預言者イザヤ」によって記されたと考えられている。
- イザヤ書53章が、あまりにもイェシュアの生涯と符合していることから、シナゴーグでは、ほとんど53章は読まれないと言う。そのため、53章の存在すら知らないユダヤ人もいるのだという。
- イザヤ書53章には「メシアが拒絶され刺し貫かれること」「神が人類の罪を全て彼に負わせること」「彼の日々が長くされ、おびただしい数の戦利品を受けること」などが預言されている。
- イザヤ書にある「メシア預言」には、ユダヤ教から離れ、東洋の宗教にのめり込んでしまった青年をも、神に立ち返らせる力がある。

近年、今回ご紹介したラピディス氏のように、ユダヤ人でありながら、イェシュアをメシアとして受け入れる人々(メシアニック・ジュー)の数は、急激に増えてきているとも言われています。
彼らやクリスチャンたちは、この「イザヤ書53章」の預言がイェシュアにおいて既に成就したと考えており、ユダヤの人々は、これから成就するのだと考えています。
これは、1人ひとりが自由意志によって判断すべきことです。はたして、あなたには、どのように感じられたことでしょうか?
この「メシア預言」という名の森を抜けるのも、もうひと踏ん張りです。ぜひ、最後までお付き合いください。
長い記事を最後まで読んでくださり、ありがとうございました!

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