

~ 聖書は信じるに値するか? No.12 ~
「888という数字の意味」について、お伝えしています。
みなさんは、映画や都市伝説などの影響によって「666」という数字を聞いたことがあり、漠然と不吉な数字であるというようなイメージを持たれているかもしれません。
一方、クリスチャンではない方で「888」という数字について聞いたことがある、という方は少ないのではないでしょうか?
実はこれらの数字は、「ゴロが良いから」という理由で適当に並べられたものではなく、ある計算の結果、導き出される数字なのですが、
今回は、この「888」という数字に注目しながら、メシア預言を見ていきたいと思います。

今朝は、いつもにも増して森全体が濃い霧に包まれ、「地図」と「コンパス」を持たない者たちを迷わせようとしているかのようです。
おや? ごらんください。一部、樹木の生えていない、広場のような空間に出たようです。
あそこに、巨大な石碑のようなものが……。
見てください、「888」と刻まれています。地図によれば、森の出口も近いようです。
さあ、今日こそ、この「メシア預言の森」を突き抜けてしまいましょう。



※栄養素等表示基準値に基づき、脂質・飽和脂肪酸・n-6系脂肪酸・炭水化物・ナトリウム・熱量を除いて、すべての栄養素で1日分の基準値の1/3以上を含む。
神秘の数秘術「ゲマトリア」と、888が意味するもの



888の意味を知る鍵「ゲマトリア」とは何なのか?
旧約聖書(原本)の大部分は「ヘブライ語(ヘブル語)」、そして、新約聖書(原本)は「ギリシャ語」で書かれているのですが、
これらの言語には、1つひとつのアルファベットに「数字」が割り当てられています。
私たちの言語に例えてみれば、「あ」=「1」、「い」=「2」といった具合にです。
つまり、上記の言語では、
- 物の名前
- 人の名前
- 言葉のフレーズ
などを「数字」に変換できるわけです。
このように、文字を数字に変換する手法を「ゲマトリア」と呼びます。
このブログでは、クリスチャンたちが「メシア」だと考えている人物を、一般的な呼び名である「イエス」ではなく、ヘブル語の「イェシュア」という名で表現していますが、
この「イェシュア」のギリシャ語表記である「イエスース」を数字に変換すると、ピッタリ「888」となるのです。


「ゲマトリア」については今後、別の記事で扱うよ。


888という数字の意味を知る事で現れる「メシア預言」
主(YHWH*)は、彼の聖なる御腕を、
すべての国民の目にあらわにされた。
地の果てのすべてが、
私たちの神の救いを見るであろう。
イザヤ書 52:10(Strong’s King James Version)
聖句の中で(YHWH)と挿入しているいる部分は、原文にてその語が使われている箇所です。「YHWH」は神の固有名詞であり、「ヤハウェ」と読む説が有力とされています。


上記の聖句にある「救い」の部分は、ヘブライ語の原文では「イェシュア」という語が使われています。

また、ここでは「イェシュア」という単語とは別に「エロヒム」という、神を意味する単語も使われています。
つまり、上記の聖句は「地の果てのすべてが、私たちの神のイェシュアを見るであろう」とも読めるわけです。
このことから、この聖句をメシア預言とする説があります。
יְשׁוּעָה אֱלֹהִים (イェシュア エロヒム)
→ 日本語で「私たちの神の救い」と訳されている部分。
6 + 50 + 10 + 5 + 30 + 1 + 400 + 70 + 6 + 300 + 10 = 888

そして、この「888」という数字は、先ほど見たように「イェシュア」のギリシャ語表記である「イエスース」の数値でもあります。
「ゲマトリア」では、同じ数値をもつ「単語」や「文章」は同じ性質を持っており、置換えが可能であるとされている。そして、置き換えすることで、さらに深い意味を発見できるとされている。
参考:世界大百科事典 第2版・Wikipedia
つまり「私たちの神の救い」の部分も、イェシュアのギリシャ語表記である「イエスース」も、共に数字に変換すると「888」になるため、両者を置き換えることができ、
「地の果てのすべてが、イエスースを見るであろう」
とすることができるわけです。
参考:キリスト教 読み物サイト『レムナント』
両者は「ヘブライ語」と「ギリシャ語」という、別々の言語ではありますが、共に、聖書の原典を記すために神が定めた、特別な言語ですから、
同じ数字のものは、言語を越えて、置き換えが可能であると考えられます。
もちろん、これまでの歴史上「地の果てのすべての人々が、イェシュアを見る」という出来事は起きていませんから、このメシア預言は、”これから成就する預言” になります。

さらに、今後「終末預言シリーズ」で詳しく見ることになりますが、
聖書には、全世界の人々にハッキリと分かる形で、メシアが来る(再臨する=もう一度、地上に来る)ということも預言されているのです。
888を拒絶してきたユダヤ人たちは、その日、すべてを悟る

――彼らは、彼ら自身が刺し貫いた者である私を見て、独り子のことを嘆くように嘆き悲しみ、初子のことで苦痛の中にあるかのように苦々しい思いをするであろう。
ゼカリヤ書 12:10(Strong’s + King James Version)

まず、” 彼ら(ユダヤ人)自身が刺し貫いた者” となっていることに注目してください。
イスラエルにおける伝統的な処刑方法は「石打ちの刑」ですから、” 刺し貫いた” は、ユダヤ的ではないような印象を受けなくもありません。
イェシュアは確かに、その手足を大釘で刺し貫かれ、十字架上で亡くなったからです。

さらに、モトイ トクメイさんの動画によれば、上記の聖句にある「彼ら自身が刺し貫いた者」と「私を見て」の間には、「エト」というヘブライ語の1語があるのだそうですが、
この「エト」は代名詞であり、通常の文章と比べて、不思議な位置に置かれているのだと言います。

この「エト」は、ヘブライ語の最初の文字である「アーレフ」と最後の文字である「タウ」から成っており、これをギリシャ語に変換すると「アルファ」と「オメガ」となります。
イェシュアはヨハネの黙示録にて、自身のことを「アルファでありオメガである者」と表現していることから、
この「エト」は、”旧約聖書に隠されたメシアの啓示” だとも言われているということです。

「――彼らは、彼ら自身が刺し貫いた者、アルファでありオメガである私を見て、独り子のことを嘆くように嘆き悲しみ、初子のことで苦痛の中にあるかのように苦々しい思いをするであろう」
「事は成った。私はアルファでありオメガ、はじめであり終わりである。命の水の泉を渇望する者には、惜しみなく与えよう」
ヨハネの黙示録 21:6(King James Version)
〈 その他の参考箇所:ヨハネの黙示録 1:8、22:13 〉
聖書では、やがて来る艱難時代(世界の最後の7年間)の末期において、エルサレムは諸国の国々に攻められると預言されています。
また、先ほどの聖句の直前では、再臨されたメシアがそれらの国々を滅ぼし、エルサレムとその住民を守ることが預言されています。
その姿を目にした彼ら(ユダヤ人たち)は、その時になって、ようやく気づくのです。
約2000年前、自分たちの先祖が十字架上で刺し貫いた者(イェシュア)こそが、そして2000年もの間、偽預言者として卑下し、拒絶してきた彼こそが、メシアであったのだと。
「888が意味するものにつけられた値段」と「陶器師の畑」



メシア預言としてここで取り上げるのは「ゼカリヤ書」11章の12から13節のみだが、この「ゼカリヤ書」11章は、紀元後、ローマ帝国によってエルサレムが陥落してしまう過程を預言したものだと解釈されている。
【聖句を理解するための背景】
神は、預言者ゼカリヤに屠(ほふ)るための「羊たち」を飼うよう、命じられる。
ゼカリヤは「貧しい羊たちや、苦しんでいる羊たち」のために、群れを養っていたが「3人の牧者たち」を、群れから切り離す。
彼らは、自分たちの羊を売ることで富み、金持ちになったと喜んでいるばかりで、自分たちの羊のことは憐れみもしない者たちであった。
ところが羊たちの多くは、そんなゼカリヤのことを慕うどころか、毛嫌いするようになる。
羊たちに落胆したゼカリヤは、これ以上、群れを養うことはすまいと決意し、各々の好き勝手にするよう、羊たちに告げると、すべての民と交わした契約を破棄した。
良き羊飼いであったゼカリヤのことを慕い、彼に付き従ってきた、群れの中の貧しい羊たちは、彼の告げた言葉が、主の言葉であることを知った。
・「羊たち」 = 「イスラエルの民」
・「羊飼いであるゼカリヤ」 = 「民である羊たちを養い、導く、メシア」
・「貧しい羊たちや、苦しんでいる羊たち」 = 「イェシュアをメシアだと考えていたユダヤ人たち」
を象徴しています。



では実際に、メシア預言の箇所を見てみることにしましょう。
私は彼らに言った。「もし、あなたたちの目が良しとするならば、私に賃金を与えよ。そうでないならば、そうせずともよい」
そこで彼らは、私の賃金として、銀30枚を量った。
主は私に言われた。「それを陶器師に投げ捨てよ。私が彼らによって値をつけられた見事な金額を」
私はその銀30枚を取り、それらを主の家の陶器師に投げ捨てた。
ゼカリヤ書 11:12~13(Strong’s + King James Version)

「あなたたち」=「羊たち」のことだよ。
羊たちが、羊飼いに対して賃金を支払うというのは、なんだか不思議な感じもしますが、この羊の群れが、イスラエルの民のことを象徴していることを思えば、神がメッセージを伝えようとしていることが読み取れます。
原語のヘブル語では……、
יָצַר (ya.tsar) …… 形成する、フレーム、陶器師、陶芸家 、を意味する単語が使われている。
すこし分かりにくいですが、この箇所では、メシアに銀30枚の値がつけられること、また、その銀貨が「陶器師」の手に渡ることが預言されています。
出エジプト記( 21:32)によれば、銀30枚は奴隷1人の値とされています。
つまり、羊たちがつけた値は「奴隷」と同等の金額であり、侮辱的な意味合いが込められているのです。

それゆえ神は「私が彼らによって値をつけられた見事な金額を」と皮肉った言い方をされているわけです。
一方、福音書には、イェシュアが12弟子の1人であったユダに、銀貨30枚で売り渡されたことが記録されています。
そのとき、十二人の一人で、イスカリオテのユダという者が、祭司長たちのところへ行き、「あの男をあなたたちに引き渡せば、幾らくれますか」と言った。そこで、彼らは銀貨三十枚を支払うことにした。
マタイによる福音書 26:14~15(新約聖書 / 新共同訳)
また、ユダが受け取った銀貨が、最終的に「陶器師」の手に渡ったことも、福音書に記されています。
そのころ、イエスを裏切ったユダは、イエスに有罪の判決が下ったのを知って後悔し、銀貨三十枚を祭司長たちや長老たちに返そうとして、「わたしは罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました」と言った。
しかし彼らは、「我々の知ったことではない。お前の問題だ」と言った。そこで、ユダは銀貨を神殿に投げ込んで立ち去り、首をつって死んだ。
祭司長たちは銀貨を拾い上げて、「これは血の代金だから、神殿の収入にするわけにはいかない」と言い、相談のうえ、その金で「陶器職人の畑」を買い、外国人の墓地にすることにした。
このため、この畑は今日まで「血の畑」と言われている。
マタイによる福音書 27:3~8(新約聖書 / 新共同訳)
この章で取り上げた「ゼカリヤ書」の聖句は、イェシュアが生きていた時代であれば、彼がメシアであることを信じていた者たち、
それ以降~現代においては「福音書」を読んだことのある者でなければ、「メシア預言」であるとは気付けないものです。
このように、一見すると「メシア預言」には見えず、何の意味があるのか良く分からないようなエピソードが、実は預言的なものであった、という啓示の仕方があることが分かってもらえたでしょうか?
さきほどご説明したように「ゼカリヤ書」は、B.C500年前後に書かれたとされています。
つまり、イェシュアをメシアと考えた場合、彼が生まれる、およそ500年も前に、すでに彼が銀貨30枚で売られること、さらにその代価が「陶器師」の手に渡ることが予告されていたことになるのです。

「888」が、私たち人類にもたらされた真の意味とは?

主なる神(YHWH)の霊が、私の上にある。
良き知らせを貧しい人々*に伝えるため、
主(YHWH)が私に油を塗られた**故である。
彼は、打ち砕かれた人々を包み、
捕虜となった者たちに自由を、
縛られている者たちに(牢獄の)開放を宣言するために、
私を遣わされた。
主(YHWH)の「受容の年」と、
私たちの神の「報復の日」を宣言するために。
イザヤ書 61:1~2(Strong’s + King James Version)
ヘブライ語の原文では「貧しい」の他に「苦しんでいる」「じっと我慢している」「おとなしい」「柔和な」「謙虚な」等の意味を持った単語が、使われている。
古代イスラエルでは「王」や「祭司」を任命する際に、神から任命されたことの証として、特別にブレンドされた香油を、その人の頭に注ぐ、ということがなされていた。
つまり「油を注ぐ・塗る」とは、神から任命されたことを表している。
上記は、イェシュアが生まれる700年以上前に記されたとされている「イザヤ書」のメシア預言です。
ここでは、”メシアが私たちに遣わされる目的” が記されています。

聖句に登場する「私」とは、この章に至るまでにイザヤ書の中で、たびたび啓示されてきた「主のしもべ」のことを指しています。
つまり「私」=「メシア」のことです。
「良き知らせ」とは、日本語では「祝福の音信(略して福音)」と、すこし取っつきにくい言われ方をされていますが、
つまるところ、”メシアが私たちを解放するために遣わされたという知らせ ”のことです。

また、”捕虜となった者たち”、”縛られている者たち” とは、神の秩序とは真逆の「世の秩序」にからめ取られ、「罪の奴隷」や「死の恐怖」に束縛されている者たちのことです。
ルカによる福音書* では、イェシュアがユダヤ教の会堂にて、上記の聖書箇所を読んだのち、「今日、この聖書の言葉が、あなたがたの耳において実現しました」と、宣言したというエピソードが記録されています。
* ルカによる福音書 4:16~21
ユダヤ教の会堂「シナゴーグ」では、聖書の朗読や解説などが行われており、「モーセ5書全巻」を154に分け、週ごとに学び、1年サイクルで全巻を通読するような形が取られていた。
参考:平凡社「世界大百科事典」

この時、イェシュアは、イザヤ書61:2の途中までしか読みませんでした。なぜなら、それ以降の預言は、未来において成就するものだったからです。
以前にもチラッとお話しましたが「メシア預言」を紐解いていくと、彼は、
- 受難する「しもべ」としてのメシア(初臨)
- 栄光に包まれた「王」としてのメシア(再臨)
という対象的な姿で、2度来るということが読み取れます。
つまり、イェシュアが会堂で読んだ箇所は「初臨」の際に成就し、彼が読まなかった残りの部分は「再臨」の際に成就する、ということです。
このようにメシアとは、”本来、神が意図したものとは全く異なる世界において苦しんでいる私たちに、自由と解放を告げるため”、神から遣わされ、地上へとやってきたのです。
まとめ
- 文字を数字に変換する手法を「ゲマトリア」と呼び、イェシュアのギリシャ語表記である「イエスース」を数字に変換すると「888」という数字が現れる。
- イェシュアが生まれる700年ほど前に書かれたとされる「イザヤ書」には「地の果てのすべての人々が、私たちの神のイェシュアを見るであろう」と読める箇所が存在する。
- 「ゼカリヤ書」には、ユダヤ人たちが ”再臨されたメシア”を見て、約2000年前、自分たちの先祖が十字架上で刺し貫いた者(イェシュア)こそが、メシアであったと気づく時がやってくると預言されている。
- 「ゼカリヤ書」には、メシアが銀貨30枚で売られること、さらにその代価が「陶器師」の手に渡ることが預言されており、イェシュアの生涯において、そのことは実際に成就している。
- 「イザヤ書」の預言によれば、”神から離れ、混沌と化した世界から私たちを解放すること”こそが、メシアが地上に遣わされる真の目的である。
すでに霧は晴れ、幾筋もの射抜くような木漏れ日が、私たちを森の外へ いざなうかのように差し込んでいます。
さあ、出口が見えてきました。長かった「メシア預言の森」とも、お別れです。
とは言え、まだ私たちは、この奥深い「聖書の世界」の入り口を通り抜けたに過ぎません。
御覧ください、目の前に広がる青々とした平原を。この先には、いったい何が待ち構えているのでしょう。
「地図」である聖書を閉じ、あなたの内なる思いと連動した「コンパス」を共に手放せば、すぐにでも、慣れ親しんだ元の唯物的な世へと戻れます。
ここから先へ進むか、引き返すかは、1人ひとりが決めることです。
しかし、どうか忘れないでください。あなたがもし世に引き返したとしても、この道はいつでも、あなたの前に開かれているのだということを。
そして、心の声という名の「コンパス」に、時折、耳を傾けることを……。

いま私たちは、長かった「メシア預言」と言う名の森をようやく抜け出しました。
もちろん「メシア預言」は、この他にも数多くありますが、今回の旅で、その全体像を知ることはできたのではないかと思っています。
聖書という書物が、単なる「道徳本」「宗教本」の類ではなく「預言の書」であることが、すこしでも伝わったならば幸いです。
この「真理探究の旅」は、このあともまだまだ続きますので、聖書という、この古くて不思議な書物に興味を持たれた方は、今後も私たちと共に、旅を続けてくださると嬉しいです。
長い記事を最後まで読んでくださり、ありがとうございました!

眠れる羊くん この記事の内容は、You Tubeでも観れるよ♪ https://youtu.be/hfOLvD6LnQc K 【真理探究の旅】~ 聖書は信じるに値するか? No.13 ~ […]
