
このブログでは…… 、
「宗教とは距離を置きつつ、聖書を人生の土台として生きる」
ことを提案しています。
詳しくは「目的のページ」をご覧ください。
もしかしたらあなたは現在、神様の存在なんて信じていないかもしれませんし、ただ漠然と”何となく神はいるんじゃないか”と思っているだけかもしれません。
あるいは、「神様」=「人格的な存在ではなく宇宙の法則的なもの」ではないかと考えているかもしれません。
また、神という存在について、漠然と信じてはいるものの、聖書を読んだことがないために、神が、どういう存在かについてまでは、「よく分からない」という方も多いかもしれません。
この記事では、
「本物の神様に助けを求めることの重要性」
についてお伝えしています。
それはつまり、”間違った存在に助けを求めてしまう可能性がある”ということです。
あなたは今、絶望的な状況に身を置いているかもしれません。私もかつてはそうでした。
しかし、神に助けを求め、神に信頼して生きてゆく人生にシフトする時、
苦しみに倒れても、再び立ち上がらせる力を持った希望と、誰にも奪われることのない、静かな喜びを心の内に宿して、生きてゆけるようになるのです。
これからする話しは宗教の話ではありません。私たちが忘れてしまっている、人として最も大切な事柄についての話なのです。
【心が折れそう】苦しい時、神様に助けてと祈ることは宗教ではない

私たちの国では、”宗教”というものに強い警戒心や、胡散臭さを感じている人たちが大半です。
これまで、宗教団体が絡んだネガティブな事件が多くありましたから、無理もないことだと思います。
かく言う私も、そのような感情を抱いている者のひとりですから。
しかし、「宗教」と共に「神」という存在に対しても同じような感情を抱くとすれば、それはとても乱暴な考え方と言えるのではないでしょうか?
「宗教と神」とは「容れ物と中身」と同じような関係にあるのですから、容れ物がどれほどひどい状態であったとしても、それによって中身にまで同じ評価を下すのは早計というものです。
ですから、神と宗教を同一視するべきではなく、別のものとして見る必要があるのです。
かつての日本では、神仏に頼る生き方は、今よりもずっと一般的で自然なものだったと思います。
ところが現代では、「神を信じている」などと言うと「ちょっと危ない人」であると思われたり、「変な宗教にはまり込んでいる残念な人」などと、白眼視されたり変わり者扱いされてしまう始末です。
しかし、冷静に考えてみてください。神を信じることの、何がおかしいのでしょうか?
自分の力の限界を知って、目には見えない存在の前に謙虚な姿勢で生きるのと、自身の力に慢心して、目に見えない存在は排除し、物質的な物のみを追い求める生き方とでは、どちらが私たちの本来あるべき姿だと言えるでしょうか?
世の中の大半の人たちは、物質的なものに価値を置きすぎていて、本当に大切なものの価値が分からなくなってしまっているのではないかと、私には思われるのです。
私たちの多くは、周囲の人や身近な人に「助けて」と言えないような問題を、その内に抱えているものですが、
現代の日本において、神様に助けを求める人たちは、上記のように少数派でしょう。
日本における、15~39歳の死因の第1位がすべて”自殺”*なのも、私たち日本人の多くが、”本当に大切なものの価値”を見失ってしまったことと無関係だとは、私にはどうしても思えないのです。
* 2019年、厚生労働省による人口動態統計月報年計(概数)の概況からのデータ。
「助けて」というあなたの心の叫びは、神様に聞かれている

人によっては、助けを求めることは弱音を吐くことと同義であり、弱さの証拠であって、恥ずべきことだと考えている方もいるかもしれません。
しかし、私はそうは思いません。
もちろん、年がら年中弱音を吐き、人に頼ってばかりの人生は良いとは思えませんが、神に頼る場合、事情は変わってきます。
なぜなら、神に助けを求める必要性を学ぶためにこそ、弱さが与えられるからです。
そう、私たちは年がら年中、日常のささいなことに至るまで、神様に助けを求めるべきであり、神様の方でもそのことを待ち望んでいるのです。
また、神に助けを求める行為は、自立心のない弱い人間がすることであるどころか、正しい道へ戻るための重要な通過点でもあります。
神は世の中の様々なできごとによってあなたの心が打ち砕かれ、神とのつながりを断ち切った状態で生きてゆくことがどれほど無謀なことであるかをあなたが悟り、あなたが助けを求めることを待っていたのです。
ただ待っていたのではありません。あなたが神に助けを求めるやいなや、あなたが差し出したその手をすかさず掴もうと、今か今かと心待ちにしていたのです。
ですから、自分の力で人生の問題を解決できないことを決して恥じてはなりません。
それは、本当に幸せな人生を歩むためのとても重要な通過点であり、誰もが見い出せるものではないのです。
今、あなたがこの記事を読んでいることは、けっして偶然ではありません。
助けが必要であることを知ること、そこからすべては始まるのです。
「苦しみに会っても心を静め、あなたの悲しみを誰にも話してはいけない。神を信じなさい。神の助けはあなたを裏切ることはない。」
マルチン・ルター
Maranatha Grace FellowshipのHPより引用
助けてほしい時の「対処法」【5選】

神様に助けを求める場合に忘れてはならない大切なポイントは、
「神の助け」=「物理的な法則を超えた奇蹟」とは限らないという点です。
もちろん、神様はそのような介入の仕方もされます。聖書にはそのような事例が数多く記されていますから。
しかし多くの場合、神様の助けは
- 「周囲の人」あるいは「まったく知らない赤の他人」
- 本
- ラジオ
- テレビ
- You Tube等の動画
- ブログなどネット上の記事
などを通してなされるのです。
このように、神の助けはさまざまな物事を通してなされるので、常に「アンテナ」を張っておくことが大切です。
また、建設的な気持ちで取り組めそうな何かに、あなたの「心」が動かされた時には、勇気を持って1歩を踏み出してみるのも良いでしょう。
そこで、助けが必要な場合の主な対処法として「聖書的なもの」も含めて5つ挙げてみましたので、参考にしてみてください。
①【信頼の置けそうな周囲の人に相談する】
言うまでもないことですが、誰彼かまわず相談を持ちかけるべきではありません。助けを求めるのであれば、家族や友人、知人、職場の人、親類等の中で、最も信頼の置ける方に相談すべきです。
②【専門の相談窓口やボランティア団体に相談する】
ネットで検索してみると、多くの相談窓口が出てきます。
例えば
- 厚生労働省
- 法務省
- 内閣府
- あなたがお住いの都道府県
などのホームページを検索してみると、多くの相談窓口が掲載されていますので、何らかの助けになるかもしれません。
何らかのボランティア団体を探してみるのも良いかも知れません。一つだけ注意したい点は、例えばNPO法人等でカウンセリングを受ける際など、無料ではない場合があるということです。
③【国や地方自治体による公的支援制度を受ける】
公的支援には、企業に対するものだけではなく、
- 住居に関する補助金制度
- こどものに関する助成金制度
- 生活困窮者のための自立支援制度
など、個人に対する支援もありますので、経済的な問題を抱えている方には、助けとなるかもしれません。
④【心にやましさを感じている事柄から離れ、神様に助けを求め続ける】
神様に助けを求める際、もし、あなたの中に何らかの”やましさ”を感じているような「思い」や「習慣」などがあるなら、それを手放す決心をしなければなりません。
神様を悲しませるような思いや習慣が、神の助けを阻害する”障害物”となってしまうからです。
重い石を掴んだ状態のまま、水の中から引き上げてくださいとお願いしてもダメなのです。
まずは、あなたを沈み込ませるその石を、手放す必要があるのです。
しかも大抵、私たちは、自分の内側にある、あるいは習慣となっているやましい点について、人から教えられずとも、自分自身で気づいているものです。
それを手放すことは、簡単なことではないかもしれません。しかし、不可能なことではないはずです。
神はあなたに、不可能なことは決して要求されません。
今よりも前に進むために、あなたが今、必死になってしがみついているものを手放し、そこから離れるのです。
主の手が短くて救えないのではない。
主の耳が鈍くて聞こえないのでもない。
むしろお前たちの悪が、神とお前たちとの間を隔て、
お前たちの罪が神の御顔を隠させ、
お前たちに耳を傾けられるのを妨げているのだ。
Isaiah 59:1~2(新共同訳)
⑤【逆に、助けを必要としている人に援助の手を差し伸べる】
これは逆説的に聞こえるかも知れませんが、その効果は自分で実地に確かめてみることのできるものです。
次のヒルティの言葉は、”憂い”について述べたものではありますが、やはり同じ霊的な法則について述べたものです。
憂いから逃れる最も良い方法は、さしあたり、他人の憂いに気を配るように努めることだ。それだから、我々自身が憂いに陥ったとき、神はしばしば、そういう機会を我々に送ってよこすのである。
『幸福論(第二部)』ヒルティ著 草間平作 訳 岩波文庫
たとえば、あなたがもし経済的にゆとりのある方であれば、「ワールド・ビジョン」などの、信頼できそうな「認定NPO法人」等の団体を介して寄付をするのもいいかもしれません。
その際、大切なポイントは、そのことを人に話したりして、ひけらかさないようにすることです。イェシュアは福音書にて以下のように言っています。
† 施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはいけません。あなたの施しを人目につかせないためです。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、公然とあなたに報いて下さいます。 Matthew 6:3~4
また、旧約聖書には、以下のような言葉もあります。
† 気前の良い魂はふくよかにされ、
水を飲ませる者は彼自身もまた潤されるであろう。
Proverbs 11:25
しかしこれは、上記のような経済的な援助だけでなく、妊婦さんやお年寄りに席をゆずるなど、日常のごくささいなことで構わないのです。
神様は、やったことの大きさではなく、その心をご覧になっているからです。
聖書には、以下のような言葉があります。
† 与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられます。押入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえます。あなたがたは自分の量るその同じ秤で量り返されるからです。 Luke 6:38
挫けそうなあなたを真の意味で助けてくれるのは本物の神だけ

冒頭で私は、”間違った存在に助けを求めてしまう可能性がある”ということを述べました。
一般に聖書の教えは”一神教の教え”だと解されていますが、実は聖書を読むと、数多くの神々についての記述があります。
しかし、神々といっても=「創造主」の意味ではなく、そのような霊的な存在(エロヒム)が多くいる、という意味です。
つまり、聖書によれば、数多に存在する霊的な存在者の中でも、最も高い位置にいる存在が、真の神=「創造主」であると教えているのです。
人間の中にも「暴力的な者」「人を殺す者」「猟奇的な者」等々、さまざまな人たちが存在するように、霊的な存在にも、関わるべきではない非常に危険な者たちが存在するのです。
このような話は信じがたいことかもしれませんが、しっかりとした認識を持ち合わせていない場合、それらの霊の影響を受け、人生がメチャクチャになってしまうということも起こりうるので、頭の片隅にでも入れておくべきです。
ですから私たちは、聖書という書物を通して「私たちに害をもたらす霊」や「真の神」に関する霊的な知識を持つ必要があるのです。
聖書とは、あなたを助けてくれる神様からの「手紙」のようなもの

このブログでは、聖書という、多くの人に認知されていながら、その内容はほとんどの人に知られていない、という古くて奇妙な書物が、本当に信頼するに足るのか? ということを探究してゆきます。
この書物は、「神様からの手紙」だと表現されることもあります。神様からの人類へ対するメッセージで満ちているからです。
私たちはどのような存在であり、また、この人生をどのように生きたら良いのかという指針が示された手紙を、信じる信じないに関わらず、既に受け取っているのです。
このことを”バカげた話しだとして一笑に付する”のも、”真実かどうか確かめてみる”のも、一人ひとりが判断すべきことです。
しかし、どうかこのことは忘れないでください。
私たちが、もし仮に単なる物質的な存在ではなかった場合、私たちはその死後、永遠とも呼ぶべき膨大な時を過ごすことになります。
そして、そこで過ごす膨大な時は、地上にいる間に神に立ち返ったかどうかで、大きく左右される可能性が十分にあり得るのだということを。
【聖書の名言】助けが必要なあなたへの、神様からのメッセージ

†――あなたは私のしもべ。
私はあなたを選んだのだ、決して見捨てはしない。
恐れるな、私はあなたと共にいる。
うろたえるな、私はあなたの神なのだから。
私はあなたを強め、あなたを助け、
私の公正なる右の手であなたを支える。
見よ、あなたに対して怒りを燃やす者は皆、
恥を受け、困惑するであろう。
彼らは無に等しくなり、あなたと争う者たちは滅びるであろう。
あなたと張り合っていた者たちを探し求めても、
あなたは見出だせないであろう。
あなたと戦う者たちは無に等しくなり、何もない者のようになる。
あなたの神、主なる私は、あなたの右の手を取って言う、
恐れるな、私はあなたを助ける。
Isaiah 41:9~13
まとめ
- 「宗教」と「神」を同一視し、同じ評価を下すべきではない。若い世代の死因の第1位が「自殺」なのは、私たち日本人の多くが、”本当に大切なものの価値”を見失ってしまったからではないのか?
- 神に助けを求める行為は、自立心のない弱い人間がすることであるどころか、正しい道へ戻るための重要な通過点である。
- 多くの場合、神の助けは物質的なものを媒介してもたらされる。私たちは座して待つのではなく、「問題を解決したい」という意思を、神に対して全面にアピールするべき。
- 私たちは、聖書という書物を通して、「真の神」に関する霊的な知識を持つ必要がある。
- 私たちはどのような存在であり、この人生をどのように生きたら良いのかという指針を既に受け取っている。そしてその判断は、各人の自由意志にゆだねられている。
いかがだったでしょうか?
このブログでは、聖書を人生の土台として生きるため「聖書という書物が本当に信頼できるものなのか?」ということを探究しています。
「揺るぎない人生の土台を築きたい」と思われた方は、どうぞ、
当ブログの目的が書かれたページから、この探究の旅へと参加してみてください。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。