
「人生の虚しさの根源にあるものに焦点を当て、1度きりの人生をムダに遠回りしないための王道の生き方」
について、お伝えしています。
この記事を読んでくださっているということは、今あなたは人生に対して、何らかの「物足りなさ」を感じていることと思います。
この「むなしさ」は、一体どこからくるのでしょうか?
私は今のところ、自分がお金持ちになった経験がないので断言はできませんが、実際にそれを経験した「人生の先輩方」の意見を聞いてみると、どうやら そうでもないようです。
「いや、そうは言っても」
と思われた方は、下の【目次】から、
〈2.【著名人たちの証言】人生の虚しさは「お金」で解消できるか?〉
の項目をクリックしてみて、そこだけでも読んでみてください。
必ず、あなたの人生にとってプラスになる、あるいは方向転換のきっかけとなる「先人たちの言葉」が、見つかるはずです。

当ブログでは、
「聖書が信じるに値する書物かどうかを探究する」と共に、
「宗教とは距離を置きつつ、聖書を人生の土台として生きる」
ことを提案しています。
詳しくは「目的のページ」をご覧ください。
【結論】人生が虚しいのは、枝や葉が「幹」から離れているから



私たちは皆、やせた厳しい土地に根を下ろす、想像を絶するほど大きな木の「枝」や「葉っぱ」みたいなものだと思って下さい。
人間だけでなく、すべての生き物も同様です。
この場合、樹木の中心である「幹」が「生命の本体」と言えます。
命の供給を失った「葉っぱ」たちは枯れ、幹と違って地下深くまで張りめぐらされたような根を持たない「枝」たちは、やせた土地で、必死に生き残ろうと四苦八苦することでしょう。
もちろん、中には幹から遠く離れたところで、たまたま良い土地を見つけて、一見すると上手くやっていけているように見える「枝葉」たちも存在します。
やせた厳しい土地に根付いた「枝葉」たちは、そのようなものたちを羨みますが、結局は幹のような
「強度」
「耐久性」
「地中深く張り巡らされた根」
を持たないため、嵐が来ればバタバタと倒れ、山火事が起これば成すすべもなく、焼き尽くされてしまいます。
このように、「自立した枝葉たち」というのは、「生命の本体」との繋がりが断ち切られている状態なのです。
【人生が虚しい…】では、私たちにとっての「幹」とは?
もちろん存在します。
私たちにとっての幹、つまり「生命の本体」にあたる存在こそが「神」なのです。
しかし、多くの人たちは、この「幹」に帰ろうとしないばかりか、「幹」が存在することすら信じていない、という状況なのです。

魂の不死は、私たちにきわめて強くかかわり、きわめて深く触れる事柄なので、あらゆる感覚を失っているのでもなければ、その真偽を詮索せずに無関心でいられるはずがない。
私たちの行動と思考のすべては、永遠の幸福があるか否かによって、まったく異なった道をたどるべきであり、
そうであってみれば、私たちの最終目標であるこの点を見すえて生き方を規整しないかぎり、分別と判断をもって人生の一歩を踏みだすことは不可能である。
こうして私たちの第一の利害と第一の義務は、この問題を解明することにあり、そこに私たちの行いのすべてがかかっている。
だからこそ私は、この点について確信をもっていない人々にしても、それを調べるために全力を尽くす人々と、そうした努力をせず問題を考えもしない人々の間には天と地の差があると思う。
『パンセ(中)』 パスカル 著 塩川徹也 訳 岩波文庫
人生の虚しさは、帰る場所を知っている心の「声無き叫び」
もし、あなたが今、人生に虚しさを感じているのであれば、実はそれは良い兆候でもあります。
なぜならそれは、”あなたが今の状況に、何らかの「物足りなさ」を感じている証拠” だからです。
あなたは深いところで感じ取っているのです。「こんなはずじゃないっ、もっと人生には何かあるはずだ」と。
あなたの心は知っているのです。帰るべき場所を。
「人生が虚しい」という思いは、幹であり、私たちの「生命の本体」である神との繋がりを失っていることに対する、心の ”声無き叫び ”であり、”危険を知らせる警報” であり、”本道へ軌道修正させるための道しるべ ” なのです。
私の言うことを信じる必要なんかありません。これは、自分で確かめることのできる問題だからです。
それに、簡単に信じたことは、たやすく捨て去ることができるものでもあります。自分で実際に確かめてみて「本物」かどうか冷静に判断すべきです。
そして、神がいるかどうかを確かめるための最良の書物こそが「聖書」なのです。
【著名人たちの証言】人生の虚しさは「お金」で解消できるか?



- 富
- 名声
- 地位
- 目標や夢の達成
- 理想的なパートナー
もちろん、これらのものを自分で実際手にして、体験的に確かめるのが1番ですが、簡単なことではありません。
しかし、実際に経験してみた人の意見に耳を傾け、推測することは可能です。
もし「お金」によって、人生の虚しさが解消できるのであれば「お金」を得た人すべてが、そう感じているはずだからです。
そして世の中には、現にこの「逆の証言」が数多く残されているのです。

スティーブ・ジョブズ | アップル社の創立者の1人

「金のためにやってきたわけではない。買いたいものなんてすぐに尽きてしまう」
「墓場で一番の金持ちになることは私には重要ではない。夜眠るとき、我々は素晴らしいことをしたと言えること、それが重要だ」
ジョージ・バーナード・ショー |
アイルランドの文学者、政治家、ノーベル文学賞受賞者
「二十代の頃より10倍金持ちになったという六十代の人間を見つけることは簡単だ。だが、そのうちのだれもが10倍幸せになったとは言わないはずだ」
ヴィクトール・ユゴー | フランスの詩人、小説家、政治家

「財布が軽くなるほど、心が満たされる」
デイヴィッド・ゲフィン | スティーヴン・スピルバーグらと共にアメリカの映画製作会社「ドリームワークスSKG」の設立者
「幸せはお金よりも難しい。お金があれば幸せになれると思っているのは、お金を持っていない人だ」
ショーペンハウアー | ドイツの哲学者

「人間は、自分の頭脳や心を養うためよりも何千倍も多く、富を得るために心を使っている。しかし、私達の幸福の為に役立つものは、疑いもなく人間が外に持っているものよりも、内に持っているものなのだ」
「富は海水のようなものだ。飲めば飲むほどに渇きをおぼえる。名声についても同じである」
矢沢永吉 | ロックミュージシャン
「金も入った、名誉も手にした。だけど、寂しさは残った。おかしいじゃないか、オレは思った」
ジョン・レノン | イギリスの伝説的ロックバンド「ビートルズ」のメンバー

「ビートルズは、欲しいだけの金を儲け、好きなだけの名声を得て、そして何も無いことを知った」


また、妻が700人、側室が300人もいたということですから、かなり精力的な人物でもあったようです**。
* :列王記上 10:14・21
**:列王記上 11:3

ソロモン | 知恵深き、イスラエル黄金期の王

なんという空しさ
なんという空しさ、すべては空しい。
太陽の下(もと)、人は労苦するが
すべての労苦も何になろう。
(略)
何もかも、もの憂い。
語り尽くすこともできず
目は見飽きることなく
耳は聞いても満たされない。
かつてあったことは、これからもあり
かつて起こったことは、これからも起こる。
太陽の下、新しいものは何ひとつない。
(略)
わたしは太陽の下に起こることをすべて見極めたが、
見よ、どれもみな空しく、風を追うようなことであった。
(略)
わたしはこうつぶやいた。
「快楽を追ってみよう、愉悦に浸ってみよう。」
見よ、それすらも空しかった。
(略)
わたしの心は何事も知恵に聞こうとする。
しかしなお、この天の下に生きる短い一生の間、
何をすれば人の子らは幸福になるのかを見極めるまで、
酒で肉体を刺激し、愚行に身を任せてみようと心に定めた。
(略)
金銀を蓄え
国々の王侯が秘蔵する宝を手に入れた。
男女の歌い手をそろえ
人の子らの喜びとする多くの側女(そばめ)を置いた。
かつてエルサレムに住んだ者のだれにもまさって
わたしは大いなるものとなり、栄えたが
なお、知恵はわたしのもとにとどまっていた。
目に望ましく映るものは何ひとつ拒まず手に入れ
どのような快楽をも余さず試みた。
どのような労苦をもわたしの心は楽しんだ。
それが、労苦からわたしが得た分であった。
しかし、わたしは顧みた
この手の業、労苦の結果のひとつひとつを。
見よ、どれも空しく
風を追うようなことであった。
太陽の下に、益となるものは何もない。
コヘレトの言葉 1:2~3、8~9、14 + 2:1、3、8~11
(旧約聖書/新共同訳)
いかがでしょうか? これが、およそこの地上にあるすべての物を手に入れた人間の残した言葉なのです。
- 金銭欲
- 名誉欲
- 支配欲
- 食欲
- 性欲
等の、あらゆる欲求をすべて満たしたソロモン王ですら「すべては空しい」と証言している事実には、説得力と重みがあると言えるのではないでしょうか?
このような証言は、探せば、まだまだ沢山あります。
これらの証言を通して、”お金があれば人生の虚しさは消え去る” という、一般に私たちが「絶対の公式」だと夢見ているものが、幻想に過ぎないということが類推されるはずです。
「人生において、僕が気に入ってる事はお金がかからない事ばかりだ。結局、僕らが持っている一番貴重な資産は、(お金ではなく)時間なんだよ」
スティーブ・ジョブズ
聖書とは、人生が虚しい人のための「地図」のようなもの

しかし、聖書によれば、私たち人類の祖先が神から離れる道を選択して以降、「私たちの人生」も「地上の秩序」も、大きく様変わりしてしまったのだと言います。
つまり、”今の世界は神が本来意図した世界とは、まるで異なった状態にある”ということです。
「では、どうすることもできないのか?」
というと、そうではなく、神はそこから脱出する「道」を、ちゃんとそなえていてくれました。

ただ、この道は「宗教」という名の覆いに隠されたような状態に置かれてしまっており、多くの人は、見向きもしません。
それはちょうど、古びた紙袋に包まれた札束が、道路脇の雑木林にでも捨てられていることに似ています。
通行人たちは、それを目にしてはいますが、まさか「札束」が中に入っているなどとは思いもしないため、わざわざ拾って、中を確認してみようとはしないわけです。
このブログは、まさに、雨風によって色あせたこの「紙袋」を引っ張り出し、開けてみて、「ほら、見てごらん。こんなものが入っているよ!」と、通行人のみなさんにお見せするためのものです。
足を止め、半信半疑だろうと、冷やかし半分だろうと、聖書の証言に耳を傾けてみたならば、”この札束が偽札でないかどうか” あとは各人が、自分たちで判断すればよいのです。

人生に虚しさを感じている方へ贈る「聖書の名言」

† 人よ、何が善であり、
主が何をお前に求めておられるかは、お前に告げられている。
正義を行い、慈しみを愛し、
へりくだって神と共に歩むこと、これである。
ミカ書 6:8(旧約聖書/新共同訳)
† 「神を畏れ、その戒めを守れ」
これこそが、人間の成すべきことのすべてである。
コヘレトの言葉 12:13(旧約聖書)

【おまけ】人生が虚しいと感じたときの「対処法」【5選】


- 何らかの「目標」を持つ。
- 自分の気持ちに素直になる(自分の心を殺さない)。
- 「虚しい」という感情をウヤムヤにしない。
- 「家事」等を、自分の役目として引き受ける。
- 人間関係を見直してみる。
①【何らかの「目標」を持つ】
人は、活動する生き物として造られています。つまり「無活動」の状態は、私たちにとって不自然な状態とも言えるのです。
”やることが無い” ということは、”何の目的も無い” ことの証拠でもあります。達成したい目的があったならば「無活動」の状態でいることは、ありえないからです。
「自分がどこへ向かっているのか、かいもく検討がつかない」というのではなく、目的地を定めて、人生という名の航海を旅しましょう。
②【自分の気持ちに素直になる(自分の心を殺さない)】
本当は〇〇したいのに「世間体」や「常識」などに縛られ、自分の気持を抑え込んでいると、人は次第に「元気」や「活力」を失っていくものです。
もちろん、やりたい放題の「放縦」に走ってはいけませんが、神があなたの心に起こされた「願い」を押し殺すことも、同じように良くないことなのです。
③【虚しいという感情をウヤムヤにしない】
これはつまり、誰かと一緒にいることで「虚しい気持ち」が無くなったように思えても、実際はそうではなく、根本的な解決にはなっていないことの証拠だと言えます。
先ほども説明したように「むなしさ」を感じるということは、必ずしも悪いことではなく、本来あるべき道へ戻るための「道しるべ」でもあるわけです。
ですから、この気持を誤魔化さずに「向き合う」という思いへと、マインドをシフトしましょう。
④【家事等を、自分の役目として引き受ける】
あなたが今、もし、実家に住んでいるのであれば……、
- 掃除機がけ
- トイレ掃除
- 風呂掃除
- 買い出し
- 皿洗い
- 洗濯
などの「家事」の中から、どれか1つでも良いので、毎日(あるいは週に数回)自分の担当として引き受けてみましょう。
これは「むなしさ」の入り込む「空白」を減らすための工夫です。
昔から「適度に忙しくしていることが、心身の健康を保つ秘訣だ」的なことが言われてきました。
「家事」も立派な仕事です。
私たちは、ヒマを持て余して手持ちぶさたな状態でいるようにではなく、何らかの意味のある活動をするものとして、言いかえれば「働く生き物」として造られているのです。
⑤【人間関係を見直してみる】
一緒にいても虚しさを感じるような「友人」や「知人」がいるのであれば、すこし距離を置くようにし、
意識的に、”人生を楽しんでいる人” や ”日々の生活に満足しているような人”たちと交わるようにしてみてください。
私たちは、驚くほど周囲の「人々」や「環境」に影響されているものだからです。

まとめ
- 人が「神」から離れて生きていくのは、枝や葉っぱが「木の幹」から離れ、自立しようとするようなもの。
- 「人生が虚しい」という思いは、心の”声無き叫び”であり、”危険を知らせる警報”であり、”本道へ軌道修正させるための道しるべ ”でもある。
- 私たちの多くは、”お金があれば虚しさは消え去り、幸せになれる”という「幻想」を信じ込んでいるが、世の中にはその「逆の証言」が数多く残されている。
- 私たちが「今住む世界」は「神が本来意図した世界」とはまるで異なった状態にある。
- 聖書とは、道路脇の雑木林に捨てられている「古びた紙袋」に似ている。しかも、この紙袋の中には「札束」が入っている。
いかがだったでしょうか?
技術が進歩し、効率やスピードが重視される現代にあって「人生が虚しい」と感じている人の数は、予想以上に多いのではないかと私は思います。
あなたは、生活していくために働くだけの「虚しい人生」から抜け出したいとは思われませんか?
あなたがもし、そのように信じて生きる道を選択するならば、「人生の虚しさ」はあなたが歳を重ねるごとに、いかんともしがたい渇きを、ますます増し加えていくことでしょう。
虚しさの中から抜け出したいならば、確かめてみるべきです。
そのための「道」があると証言されており、そこに至るための「地図」が、今あなたの目の前に置かれているのですから。
このブログでは、「聖書という書物は本当に信頼できるものなのか?」ということを、かなり踏み込んで検証しています。
「虚しい人生から抜け出したい」と思われている方は、当ブログの目的が書かれたページから、この探究の旅へと参加してみて下さい。
