
このブログでは…… 、
「宗教とは距離を置きつつ、聖書を人生の土台として生きる」
ことを提案しています。
詳しくは「目的のページ」をご覧ください。
この記事では、
① 人が孤独に押しつぶされそうになる真の原因は、神から離れているからであること。
② 人の心には、神でしか埋めることのできない穴がポッカリと空いていること。
③ 孤独を、”素晴らしい出会いに備え自分を磨くための準備期間” と捉えよう!
ということについてお伝えしています。
ネットで検索してみると「寂しさ」に対処する様々な方法が紹介されています。
果たしてあなたは、それらの方法をためすことによって、ご自身の「寂しさ」を解消することができたでしょうか?

結論から言うと、残念ながら それらの対処法では、あなたの「孤独」や「寂しさ」を根本から解決することはできないのです。
解決するどころか、むしろ「寂しさ」をいっそう募らせる結果ともなりかねません。
それらは、あくまでも一種の「対処療法」であり、「表面的な解決策」でしかないからです。
この記事では、そのような ”その場しのぎの気休め的な解決策” ではなく、
”本質的・根源的な解決策” について、お伝えしたいと思います。
助けて、寂しい | あなたが孤独に押しつぶされそうになる真の原因



あなたも眠れる羊くんのように「家族」や「恋人」などのパートナーがいれば、寂しさを感じなくてすむのに……、と思っているのではないでしょうか?
しかし、あたたかい家庭を築いていたとしても、恋人がいたとしても、孤独を感じるということはあり得ます。
不思議かもしれませんが、私たちは、1人ではないにも関わらず、
「寂しい……」と感じることがあるものなのです。
なぜなら、たとえ どんなに気の合うパートナーであったとしても、何から何まで100%分かり合えるということは、不可能だからです。

実は、そのようなパートナーこそが、あなたを創った「神」なのです。
「神だなんてバカバカしい」とあなたは思うことでしょう。今のような世の中の価値観にどっぷり浸かった生活をしていれば、ムリもありません。
ある意味、私たちのうちに生じる「寂しさや孤独感」といったものは
人が「本物の幸せ」を感じることができる正しい道へ回帰するための「羅針盤」のようなものです。
あなたが今、直面している「寂しさ」という問題は、実はこのように、あなたの人生の根幹に関わる「深い問題」なのです。
あなたはこの「深い問題」にフタをしておくことも、一笑に付することもできます。
しかしそれは、たとえて言えば、ブレーカーが落ちていることには対処せずに、ロウソクを灯したり、懐中電灯を用いたりして、部屋を明るくしようとするようなものです。
ロウソクなどでも部屋をいっときの間、明るくすることはできますが、闇の中を手探りで進み、ブレーカーを上げに行かなければ、根本的な解決にはならないのです。
【助けて、寂しい】人の心には、神でしか満たせない穴がある
私たちが寂しさを感じる本当の理由は、恋人や友人がいないからではありません。
もちろん、恋人がいたり、たくさんの友人に囲まれていれば、寂しさは一時的にうすらぐことでしょう。
しかし、24時間365日いっしょにいられるわけではありませんからかならず1人になる時間があるはずです。
そして そのような時、ふとした瞬間、以前自分の中にあった「寂しさ」は、消えたのではなく、隠れていたにすぎなかったことに気づくのです。
実は、人が寂しさを感じる理由の「真の根源」は、私たちが神から離れていることにあります。
本来、共に歩むべきパートナーである「神」から独立し、1人で人生を歩んでいることが、その原因なのです。
人の心には、神でしか埋めることのできない穴がポッカリ空いていて、人はその空虚を何かで満たそうと恋人を求めたり、
友人を求めたり、趣味や娯楽や賭け事、スポーツ等々、神以外の様々なものを追いかけ回しているのです。
あなたが孤独の中で居ても立ってもいられないような気持ちになるのは、
世の中の何物をもってしても埋め合わせることのできない その空虚と向き合うことに耐えきれないからなのです。
人間は自分を取り巻くものでその空虚を満たそうとむなしく試み、現前しているものからは得られない助けを、不在のものから得ようとするが、いずれも助けをもたらすことはできない。なぜならこの無限の深淵を満たすことができるのは、無限で不動の対象、すなわち神ご自身しかないからだ。
『パンセ(上)』 断章427 パスカル 著 塩川徹也 訳 岩波文庫
助けて | ”寂しい時の対処法” & ”孤独を打ち砕く5つのステップ ”

【助けて】寂しい時の「一般的な対処法」

- 日光浴をする
- しっかり睡眠を取る
- 美味しいものを食べる
- 買い物をする
- 運動して汗を流す
- カラオケで大声を出す
- 本を読む
- 感動する映画やドラマを観る
- 家族や友人と過ごす
- 趣味に没頭する
- 旅行する
- 半身浴をする
- 瞑想する
- カウンセラーに相談する
冒頭でもお話したように、これらのことを試したとしても、あなたの中にある「寂しさや孤独感」は決してなくならないでしょう。
一時的に「紛らわす」ことができるくらいのものです。
試しに想像してみてください。1人で日光浴をしたり、美味しいものを食べたりして、果たして「寂しさ」に対処することができるでしょうか?
それどころか、かえって「寂しさ」が増すのではないでしょうか?
このような「見せかけの対処法」で自らをあざむくことなど、できるものではありません。
大人の場合には、この世の気晴らし、ことに快楽の大部分は、そうでもしなければとうてい耐えられないような事柄を、何時間かのあいだ忘れさせるためにだけ役立つのである。
――そのために、芝居や演奏会やその他の娯楽場が成り立っている。そういうものが設けられて、それが維持されるのは、たんに享楽欲や芸術趣味からばかりではない。
また、いろいろな社交やクラブ活動、つまり、絶えず人に会っていたい欲求の本当の動機も、実は、自分だけになり、ひとりでものを考えなくても済むためである。
酒もこの理由から、さしあたってともかくも打ち勝ちがたい力を持っている。それは、酒が享楽の手段であり、多くの人にとって享楽が人生の目的だからではない。
むしろ、酒が「憂さ晴らし」であり、現代のレーテの河(物忘れの河)であることの方が、はるかに大きな原因である。
『幸福論(第三部)』ヒルティ著 草間平作 訳 岩波文庫
【助けて】「寂しさ・孤独」を打ち砕く5つのステップ

に打ち砕く方法を紹介するよ。
- 「寂しさ」を隠したり 何かで紛らわすのではなく、まずは受け止める
- 「孤独」は人を成長させ、より良い出会いの為の準備期間と捉える
- 「人に依存する」から「神に依存する」へとマインドシフトする
- 聖書を用い、自分の「人生観」等を徐々にアップデートしていく
- 神に立ち返り、神と共に人生を歩みはじめる
①【 寂しさを隠したり 何かで紛らわすのではなく、まずは受け止める】
私たちの多くは「寂しさ」を、娯楽や趣味などによって紛らわそうと試みます。
しかし、”見ないようにすればするほど、かえって気になってしまう” という心理が人にはあるものです。
また、別のもので紛らわしても「寂しさ」は、しばらくすると すぐさま姿をあらわすため、よりいっそう深く印象される、という負のスパイラルが起こります。
ですからまず、私たちが踏むべき最初のステップは、コソコソと逃げまわったり、うやむやにするのではなく、むしろ開き直って、真正面からこの「寂しさ」を受け止めるということです。
②【「孤独」は人を成長させ、より良い出会いの為の準備期間と捉える】
「寂しさ」という感情から逃げまわるのをやめたのち、次に私たちが踏むべきステップは、「孤独」=「×」という間違った考え方を捨てることです。
「孤独」は、けっして悪いことばかりではありません。
孤独が苦痛なのは、自分自身と向き合うことに耐えきれないからですが、この”自分自身と向き合う” ことによってこそ、人は精神的・人格的に成長することができるものです。
友人や恋人ができるまでの間は、このような自分磨きの期間だと考えましょう。
そして、自分を磨けば磨くほど、類は友を呼びますから、よりいっそう魅力的な恋人と出会えるようにもなるのだと考えましょう。
③【「人に依存する」から「神に依存する」へとマインドシフトする】
何事も、極端にかたむくと「ゆがみ」が生じるものです。
私たちは、もちろん1人では生きていけませんが、あまりにも「親」や「恋人」などに依存するのは、人として健全な状態とは言えないでしょう。
一方、神の場合はと言うと、私たちは大いにたよるべきですし、逆に依存すべきなのです。
ちょうど、幼い子どもが親にたよるように、私たちは神にたよって生きるように創られているからです。

とは言え、それほど身がまえなくても大丈夫です。
いきなり、神への依存度を100%にする必要はないですし、そんなことは そもそも不可能だからです。
日常の、ささいなことで神にたよってみる等、ほんの数%からスタートするイメージで、はじめてみましょう。
④【 聖書を用い、自分の「人生観」等を徐々にアップデートしていく】
神にたよる生活へと移行しはじめたのちに、私たちが取るべき次のステップは、聖書(特に福音書*)を通して、
人生の土台とも言うべき「価値観」や「人生観」といったものを、新たに構築していくというものです。
*「新約聖書」の中にある、冒頭の4つの書物のこと。
建設的で堅固な土台を築くものとして、聖書以上にすぐれた書物は他にありません。

ちなみに、聖書において「結婚」は、喜ばしく、かつ神聖なものとしてあつかわれていますが、
必ずしも結婚することが「最善の選択」とは限らないともしています。
つまり、聖書によれば、私たち現代人の多くがそう信じ込んでいるように、
「結婚=幸せ」は、絶対の公式ではないということです。
世間には「不幸せな結婚」というものも確かに存在しますし、「離婚」という決断をする人たちも、かなりの割合いることを考えると、
世間体や あせりから軽率に結婚することは、かえって不幸になるという「本末転倒な結果」ともなりかねません。
⑤【 神に立ち返り、神と共に人生を歩みはじめる】
最後のステップは、神に立ち返るという決断をし、実際に神と共に人生を歩みはじめるというものです。
聖書を土台とし、神と共に人生を歩むことは、宗教ではありません。人として、しごく真っ当な生き方です。
世間には「おかしな宗教」や「カルト的な集団」が多いため、それらによって神の名が汚され、
神を信じて人生を歩むことが、なんだか あやしげな、邪道なことのように錯覚させられているのです。
しかし、冷静に考えてみてください。神を信じ、人生を歩むことのどこが、おかしいと言うのでしょう?

そして、このステップまで来ると、「寂しさ」は「大いなる希望」の前に力を失います。
牙を抜かれた「寂しさ」は、あなたが再び力を与えてしまわない限り、もはや あなたを揺り動かすことができなくなるのです。
助けて、寂しい | 聖書は心の空虚を満たす事のできる唯一の書物

ここまで読んでくださったあなたは、神の「失われた子羊」である可能性が高いと、私は思います。

なぜなら、大半の人たちは上記のステップを踏もうとせず――あるいは踏むことができないため、「神」だの「聖書」だのという言葉を見て、途中で読むのをやめてしまうはずだからです。

ですから、もし今、あなたの内に「聖書」を読んでみたいという思いが起こされているのであれば、いちど「新約聖書」の中の「福音書」を読んでみることをオススメいたします。
この ”多くの人の手の届くところに置かれてあるのに、隠されている書物” は、
世の何物をもってしても満たすことのできない ”あなたの心を満たすことのできる唯一の道”、を指し示す「道しるべ」だからです。
まとめ
- どんなに相性の良いパートナーと出会ったとしても、100%分かり合えることは不可能なため、「寂しさ」を完全に消し去ることはできない。
- 私たちのうちに生じる「寂しさ」や「孤独感」は、人が「本物の幸せ」を感じることができる正しい道へ回帰するための「羅針盤」のようなもの。
- 本来、共に歩むべきパートナーである「神」から独立し、1人で人生を歩んでいることが「寂しさ」の真の原因。人の内には、神でしか満たすことのできない穴がある。
- 「寂しさ」を神以外のもので解消しようとしても、一時的に紛らわすことができるのみ。
- 幼い子どもが親にたよるように、私たちは神にたよって生きるように創られている。「人」ではなく「神」に依存せよ。
- 神と共に人生を歩むことは、宗教ではなく 人として当たり前の生き方。そのように歩む時、「寂しさ」は力を失う。
いかがだったでしょうか?
このブログでは、聖書を人生の土台として生きるため「聖書という書物が本当に信頼できるものなのか?」ということを探究しています。
「揺るぎない人生の土台を築きたい」と思われた方は、どうぞ、
当ブログの目的が書かれたページから、この探究の旅へと参加してみてください。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。