
このブログでは…… 、
「宗教とは距離を置きつつ、聖書を人生の土台として生きる」
ことを提案しています。
詳しくは「目的のページ」をご覧ください。
「生きていくのが辛い、と感じている人こそ聖書を読んでみるべき」
ということについて、お伝えしています。
「生きていくのが辛い」と感じる時、まわりの人たちが皆、幸せそうに見えるものです。
私も、「自分の人生だけ呪われているんじゃないか」と思いながら、長年過ごしてきました。しかし、今の私はこう思います。
「多くの人たちは人生を楽しんでいるように見えるけれども、心の奥では何か満たされない ”むなしさ” のようなものを感じているんではないか。
その空虚さをおおい隠すために、趣味や娯楽といった ”楽しみ” を追いかけ回しているのではないか」
もう人生に限界を感じ、生きていることが辛いと感じている方は、長い記事ではありますが、休憩をはさみながらでも、どうぞ最後まで読んでみてください。



※栄養素等表示基準値に基づき、脂質・飽和脂肪酸・n-6系脂肪酸・炭水化物・ナトリウム・熱量を除いて、すべての栄養素で1日分の基準値の1/3以上を含む。
生きていくのが辛いからこそ、見える光がある

「生きていくのが辛い」と、人生に息苦しさを感じている人は、言葉にはしないだけで、実は大勢いるのではないかと、私は思います。
私も「人生は基本的に辛いもの」だと思いますし、実際、人生には楽しいことよりも「辛いこと」「我慢しなければならないこと」の方が多いように感じます。
処世術に長けていたゲーテでさえ、以下のように言っています。
結局、私の生活は苦労と仕事より他の何物でもなかった。私の七十五年の間に、本当に楽しかったのは四週間とはなかったといっていい。
それは、たえず新たに運び上げようとしても永遠に転がり落ちる石であった。
『幸福論(第二部)』 ヒルティ著 草間平作 訳 岩波文庫より
ゲーテの『タッソー』の言葉
あなたは人生の晩年において、このような結論に達したいですか?
そのような人は、ひとりもいないはずです。
彼のこのあまりにも悲しげな言葉に対し、クリスチャンであり、国際法の大家としても有名であったカール・ヒルティは、以下のように述べています。
ゲーテは他の道によって幸福を求めた人たちの師であるが、その七十五年の労苦の間に、わずかに四週間の安楽しか見出さなかった。
だれでも生涯の終わりにその良心を問われて、このような貧弱な答えをしてはならない。
『幸福論(第二部)』 ヒルティ著 草間平作 訳 岩波文庫
ゲーテはクリスチャンではありませんでした。
何か人間の力を超えた、超自然的な力が存在することについては認めていたようですが、それを人格的な存在だとは考えていなかったようです。
聖書には、神が存在するということが明確に述べられています。
あなたは、「神がいるかどうかなんて、分かるはずがない」
「そんなこと、どうでもいい」と思っているかもしれませんが、
「神を信じて生きてきた人」と「そうでない人」との差は、人生の終わりに差しかかるころになって明確に現れるのです。
神に立ち返るチャンスは、命の灯が消える、最後の瞬間まで残されていると私は信じていますが、その時まで、この人生の大命題にふたをしておくべきではありません。
今こそ、取り組むべきです。
「最後までチャンスがあるなら、やりたいことやって、人生楽しむだけ楽しんだら、そのあとで考えてみるよ」とあなたは思われますか?
その時になって「神は存在するか?」というこの問題に取り組もうと思っても、後の祭りです。明日の命がどうなるかなんて、誰にも分からないのですから。
しかし私は、あなたにキリスト教徒になることをすすめているのではありません。
かく言う私も、クリスチャンを自称してはいますが、何らかの「宗派」や「団体」に所属しているわけではありませんので、いわゆる「キリスト教徒」ではありません。
しかし、キリスト教徒という形で宗教をやらずとも、聖書を人生の土台として生きることは可能なのです。
とは言え、この日本において「聖書を読んでみよう」などと思う人は稀です。
だからこそ、苦しみが必要なのです。
人生に打ちのめされ、魂が打ち砕かれて藁をもすがるような状態にでも置かれなければ、人は真実に手を伸ばそうとはしないものです。
ですから、あなたは今置かれている「生きていくのが辛い」という状態を、無駄にすべきではありません。
今の苦しい状態は、真実を掴むための最良のチャンスでもあるのです。
生きていく事が辛くとも、人生の土台によって耐性は大きく変化する

生きてゆく上で「悩み」や「苦しみ」は、きっと避けられないのだと思います。
しかし、何を人生の土台としているかで、それらに対する ”耐性” は、大きく変化するものです。
人生の土台が貧弱なものであれば、世の思い煩いに耐えきれず、最悪の場合、自ら命を手放してしまうことにもなりかねません。
この ”耐性” を上げる最強の書物こそが『聖書』なのです。
世にある、何らかの「哲学」や「思想」によっても、”人生の耐性”を上げることはできるでしょう。
しかし「聖書の教え」に肩を並べるうる思想はないと思います。その教えは多岐にわたり、人生のあらゆる諸問題をカバーするものです。
だからこそ、数千年もの長きにわたって人々の心をとらえ、その支えとなってきたのです。
人生とは霊的な戦いであり、この世はある意味、戦場とも言える場所です。
参考 :人生とはスピリチュアルな戦いである。究極的には誰も助けてはくれない
私たちは、一人ひとりが「霊的な武具」を身に着ける必要があります。その認識がなければ、わけが分からないうちに、人生に翻弄されてしまうのです。
何が恐ろしいと言っても、「知らない」ということほど、恐ろしいことはありません。
兜をかぶっていれば、致命傷は避けられるでしょう。鎧や胸当てを身につけていれば、ダメージを受けずに済むか、少なくとも最小限におさえることができるかもしれません。
”人生の耐性を上げる” とは、この世という戦場において、まさに甲冑を身につけるようなものです。
そして、この世における「霊的な最強の武具」こそが、「聖書の教え」なのです。
生きていくのが辛い時の「対処法」【6選】

残念ながら「霊的な武具」は、一朝一夕に身につけられるものではありません。
では、目の前にある辛い現状に対し、私たちはどう対処したら良いのでしょうか?
数多くの対処法があるかと思いますが、その中のいくつかを紹介してみたいと思います。
一般的な3つの「対処法」
- 原因をさぐる
- 信頼できる人や専門家に相談する
- 本や映画を通し、困難な人生を立派に生き抜いた人の人生に触れる
【 原因をさぐる 】
一般的な対処法としてまずやるべきことは、その原因を突き止め、対処することです。
「そんなこと、できるなら誰だってとっくにやってるよっ!」
と思われるかもしれませんが、
「”いちばん根っこになっている原因” に、本当に気づけているか?」
「その原因に本気で対処すべく、具体的に ”行動” しているか?」
という点については、再度、検討してみる価値があるかもしれません。
大切なことは ”原因を知る” だけでなく、根気よくその原因を打ち砕くべく ”具体的に行動し続ける” ことです。
そしてもし、あらゆる事柄を試して、それでも何ら解決しないのであれば、その時こそ、ついに聖書を読むべき時が到来したと言えるのです。
【 信頼できる人や専門家に相談する 】
ひとりで悩んでいても解決しない場合、自分以外の誰かに相談を持ちかけることによって、突破口が開けるということもあります。
【 困難な人生を立派に生き抜いた人の人生に触れる 】
苦しい困難な人生を、最後まであきらめず、何度も立ち上がって生き抜いたような人生の先輩方の人生に触れる時、
私たちはその不屈の精神に触発され、「私も、もういちど、立ち上がってみよう」と思えるものです。
たとえば…… 、
- 本
- 映画
- ドキュメンタリー番組
- ネットの記事
- You Tube
など、さまざまな媒体を通して、先人たちの魂に触れることができます。
聖書的な3つの「対処法」
- 戦うのではなく、時には避ける
- 自分の力の限界を認め、神に助けを求める。
- 聖書(福音書)を読む。
【 戦うのではなく、時には避ける 】
真面目で実直な人ほど「人生の諸問題」や「トラブル」に正攻法で立ち向かい、傷だらけになってしまう傾向があります。
しかし、聖書には以下のような警句があります。
† 賢明な者は悪いことを予見すると身を隠す。
しかし、無知な者は通り過ぎてひどい目に合う。
箴言 27:12(旧約聖書)
すべての問題から逃げ回っていてはいけませんが、何でもかんでも立ち向かえばいい、というものでもありません。”いなす”ということも大切です。
格闘技で言えば、相手の攻撃をすべてまともに受けてしまうようなものです。
プロの格闘家が、”相手の攻撃をいなす” ように、私たちも時には人生のトラブルに真っ向からぶつかってゆくのではなく、
「しばらく身を潜めておいて静かにしている」あるいは「思い切って逃げる」などの対処法も、選択肢として持っておくべきです。
人生においては、「逃げるが勝ち」が最良の対処法であることも往々にしてあるものです。
【 自分の力の限界を認め、神に助けを求める 】
「自分の力だけで生きてゆくのは不可能だ」というところまで追い詰められることは、必ずしも最悪の事態とは言えません。
なぜならそれは、間違った道から離れるための「最大のチャンス」でもあり、本当に心から幸せを感じる生活への「通過点」でもあるからです。
関連:『「助けて」というあなたの心の叫びに、神様は手を差し伸べる』
【 聖書(福音書)を読む 】
また私は、旧約聖書から読みはじめることは、できれば避けた方が良いと思っています。
それは、まだ歯の生えそろっていない赤ちゃんが、ステーキを食べようとするようなことだからです。
また、福音書を読む際、意味が分からない箇所があっても心配いりません。読むこと自体に意味があるからです。
なぜなら、”言霊” という言葉があるように、聖書の言葉にも、力強い霊が宿っているからです。
それに、正直、私たちクリスチャンにも ”意味の不明瞭な聖書箇所” や、”解釈が色々ある箇所” は、たくさんあるのです。
辛い人生を前向きに生きていく為のヒント【9選】

”習慣は第2の天性” と言われるように、今現在の私たちは、大部分、これまでに積み重ねてきた「毎日の習慣」によって、形作られてきたと言えます。
ですから、低迷した人生を上向きに変えるには、この「毎日の習慣」を変える必要があります。
「古い破壊的な習慣を捨てる」ことと、
「新たに建設的な習慣をつける」ことの2つがあります。
はじめのうち私たちは、前者に重点を置くべきです。
なぜなら、どれだけ澄んだ水を注ぎ続けても、常に、わきから泥水が流れ込んでいるようでは、なかなか思ったように濁った水は、清くならないからです。
まずはじめに私たちは、泥水をせき止めることに手をつけるべきなのです。

一般的な4つの「ヒント」
- 自分を責める癖をやめる
- 嫌な場面のリピート再生をやめる
- 完璧主義を捨てる
- ”今までとは違う何か” を生活に取り入れる
【 自分を責める癖をやめる 】
「生きていくのが辛く、しんどい」という状態があまりにも長く続くと、人は自信を失い、やがては自分の存在価値すら分からなくなってしまうものです。
かつての私はそうでした。「関節リウマチ」は、免疫系統が自分の身体を攻撃してしまうという原因不明の疾病なのですが、
もしかしたら「ひどく自分を責める」という、私の長年の精神的習慣が、肉体に形となって現れたものなのかな、と思ったりもします。
(もちろん、これはあくまでも私の個人的な見解であり、医学的な根拠は一切ありません)
いずれにしても、自分を責めることは、文字どおり百害あって一利なしです。私たちは何度失敗しても根気よく、この泥水をせき止めるべきです。
【 嫌な場面のリピート再生をやめる 】
過ぎたことに囚われてはいけないことに関しては、
「こぼれたミルクを悔やんでも仕方がない」
「覆水盆に返らず」
など、昔からさまざまな言い回しで伝えられてきた、先人たちの知恵です。
- 過去に犯した失敗。
- 後悔していること。
- 恥ずかしい思い。
私は「過ぎたことは忘れよう」と言っているのではありません。忘れたくても忘れられないのがふつうですから。
しかし、ネガティブな過去を振り返るという行為も、やはりあなたの心に流れ込む ”泥水” なのです。
私なりの、この ”リピート再生” をやめるコツは、その出来事の ”プラスの側面” を見出し(あなたが見つけようと思えば、それは必ずあるはずです)、
自動再生されるたびに、その ”プラスの側面” を宣言するか、自分に言い聞かせることです。
これを根気よく続けることで、過去はおとなしくなってゆきます。
【 完璧主義を捨てる 】
聖書を読むと「人間というのは完璧ではないのだなあ」ということがよく分かります。
アダムとエバにはじまり、モーセ、ダビデ、ソロモン、ペテロや他の使徒たちも皆、間違いを犯しました。
神に選ばれた民であるイスラエルも、くりかえし何度も ”神に背く” という間違いを犯しました。
私たちは、完璧ではありません。失敗しても良いのです。
【 ”今までとは違う何か ”を生活に取り入れる 】
次にご紹介するものは「新たに建設的な習慣をつける」方のアプローチになります。
単純に考えて、今までと同じことをやっていては、今の状態が続くだけだというのは、当然のことだと言えるでしょう。
何らかの変化を起こすため、これまでにないアクションを起こす必要があるわけです。
それはたとえば、
- 毎朝早起きして、〇〇の勉強をはじめる。
- 毎月、必ず○冊の本を読むようにする。
- 趣味やスポーツを新しくはじめてみる。
というようなものです。
人生とは、良い意味でも悪い意味でも「何が起こるか分からない」ものですから、新たに取り入れた習慣が ”人生の起爆剤” となる可能性は、大いにあります。
聖書的な5つの「ヒント」

- 幸せの基準や、自己評価の基準を下げる
- 天からの視点で物事を見る習慣をつける
- 明日のことは手放し、今日だけに集中する
- この世で生きる以上、辛い事はあって当たり前だというマインドに
シフトする - 自分の役割というものに集中し、その他は思い切って手放す
【 幸せの基準や、自己評価の基準を下げる 】
「生きていくのが辛い」と感じているあなたは、もしかしたら、”幸せ” や ”自己評価” の基準線を、かなり高く設定しすぎてしまっているのかもしれません。
基準線が高ければ高いほど、人生に対する満足度は低くなり、みじめな気持ちになるのは当然のことです。
聖書には以下のような言葉があります。
† 私たちは、この世に何も持って来ませんでしたし、
何も持ち出すことができないのは確かです。
ですから、食べるものと着るものがあれば、私たちはそれで満足すべきです。
テモテへの手紙 第Ⅰ 6:7~8
芸能界では、
- 背が高い
- 容姿端麗
- 歌がうまい
- お金持ち
- コミュニケーション能力(トーク力)が高い
などがもてはやされ、価値のあることだとされているからです。
しかし、芸能界というものは ”特異的な人たちの集まり” であることを忘れてはいけません。
その基準線を採用するならば、私たちは「歪んだ物さし」で人生を、そして自分自身を測り続けることになるでしょう。
あなたの基準線はどうでしょうか?
「規格外の物さし」があなたの手に握られているのであれば、今が、手放すべき時です。
【 天からの視点で物事を見る習慣をつける 】
「天からの視点」という言葉がピンとこなければ、「あなたがこの世を去ったあとの視点」というふうに置き換えてみてください。
やがて、すべては過ぎ去るものです。
生きていると、さまざまな問題に直面しますが、
世から離れ、天からそれらを振り返った時、いったいどのように見えるかを想像してみることは、けっして無意味なことではありません。
私たちは早晩、ひとりの例外もなく、その立場に身を置くのですから。
【 明日のことは手放し、今日だけに集中する 】
これも「過去を振り返らない」ことと対になって、昔からくりかえし言われてきた警句です。
この「取り越し苦労」に対する注意に関しては、聖書でも次のように言及されています。
† 明日のことまで思い悩むな。
明日のことは明日自らが思い悩むであろう。
その日の苦労は、その日だけで十分である。
マタイによる福音書 6:34
【 この世で生きる以上、辛い事はあって当たり前だというマインドにシフトする 】
何らかの圧力や攻撃を受ける際、”覚悟を決めて、受ける体制に入っている” のと、”及び腰で、無防備の状態にある” のとでは、「精神の状態」と「受けるダメージ」とに雲泥の差が生じます。
「攻撃は最大の防御」という言葉があるように、”運命の圧力に対する攻めの姿勢” は、”身を丸めた防御一辺倒の姿勢” に勝るのです。
この世が ”安楽の場ではない” ことに関しては、聖書でも以下のように述べられています。
† あなたがたは、世にあっては艱難があるでしょう。
しかし、元気を出しなさい。わたしはすでに、世に勝ったのです。
ヨハネによる福音書 16:33
【 自分の役割に集中し、その他は思い切って手放す 】
聖書によれば、私たちには一人ひとり、この世で、それぞれ異なった役割が与えられているのだと言います。
† もし、身体全体が目であったら、どこで聞くのか。
もし、全体が聞くところであったら、どこで匂いをかぐのか。
しかし、今や、神はその欲するままに、
そのすべての器官を身体の中に置かれました。
コリント人への手紙 第Ⅰ 12:17~18(新約聖書)
もしかしたら、私たちの人生が思うように好転しないことの原因は、
私たちが「自分のなすべきこと」から離れ、他の人に任された領域でがんばりすぎているのかもしれません。
他人の人生は幸せそうに見えたり、華やかに見えるものです。しかし、手が目になろうとするならば、けっして上手くはゆかないでしょう。
私たちは人と比べないで、自分のなすべき務め(任務)に注力すべきなのです。
生きていくのが辛い人へ送る、聖書の名言

† 主は、いつまでも見捨てておかれることはない。
悲嘆に暮れさせたとしても、
その多くの恵みによって哀れんで下さる。
彼は、自ら進んで人の子らを苦しめることも、
深く悲しませることもしないからだ。
哀歌 3:31~33(旧約聖書)
† 彼は、疲れた者に力を与え、
権力を持たない者たちの力を増大させる。
――主に従う者たちは力を新たにされ、鷲のように翼を張って上る。
イザヤ書 40:29~31(旧約聖書)
まとめ
- 人生に打ちのめされでもしなければ、人は真実に手を伸ばそうとはしない。今の苦しい状態は、真実を掴むための最良のチャンスでもある。
- ”人生の耐性” を上げるのに「聖書」ほど適した本はない。
- 自分の力ではどうにもならないのであれば、神に助けを求め、聖書を読んでみるべき。
- 「自責」「過去による束縛」「完璧主義」等、私たちは、心に流れ込む ”泥水” をせき止める必要がある。
- 人生の基準線を見直し、もっと高い位置から人生をながめ、私たちは ”攻めの姿勢” で、人生に立ち向かうべき。
いかがだったでしょうか?
このブログでは、聖書を人生の土台として生きるため「聖書という書物が本当に信頼できるものなのか?」ということを探究しています。
「揺るぎない人生の土台を築きたい」と思われた方は、どうぞ、
当ブログの目的が書かれたページから、この探究の旅へと参加してみてください。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。