人間は自分の身の置き所を知らない。明らかに彼は迷い、自分の真の居場所から転落しているが、それを見つけることはできない。彼は不安に駆られてあらゆるところを探すが、奥深い闇の中にあっていかんともしがたい。
『パンセ(中)』 パスカル 著 塩川徹也 訳 岩波文庫


~ 聖書は信じるに値するか? No.21 ~
「アダムとエバが犯した罪とは、何だったのか?」
ということについて、お伝えしています。
眠れる羊くん この記事の内容は、You Tubeでも観れるよ♪ https://youtu.be/B-31HuN_E4A https://youtu.be/PlM4jBXIxzw […]
聖書では「罪」が、重要なキーワードの1つとなっているのですが、これは、いわゆる「犯罪を犯すこと」だけを指しているのではありません。
つまり……、
「私は、警察に捕まるようなことしてないから大丈夫!」
というわけにはいかない、ということです。
そして聖書によれば、この「罪」に対して何の処理もなされないままの状態で「地上の人生」を終えてしまうと、もう、どうすることもできなくなってしまうのだ、と述べられています。
このような耳の痛い話は、聞きたくないかもしれませんが、死後の、”永遠とも言える期間が左右される可能性”を考えれば、耳を傾ける価値は十分にあると思います。
では、はじめましょう。
【神の御業の丘陵 ― kami no miwaza no kyuuryou ―】
「あぁ、あそこに井戸が……」
荒れ果てた不毛の地を抜け出し、かろうじて命をつなぎ止めた一行は数日の間、休息することに。
不思議にも、体力を回復させるには「命の水」と「イチジク」「ナツメヤシ」などの木の実だけで十分であった。
英気を養った一行の行く手には、この先の厳しい旅を予感させる、険しい丘陵が横たわっていた……。



※栄養素等表示基準値に基づき、脂質・飽和脂肪酸・n-6系脂肪酸・炭水化物・ナトリウム・熱量を除いて、すべての栄養素で1日分の基準値の1/3以上を含む。
聖書が示す2種類の罪 | 「一般的な罪」&「アダムとエバの原罪」



聖書が禁じる「一般的な罪」
これは……、
- 盗むこと
- だますこと
- ケガをさせること
- 殺人をおかすこと
といった、いわゆる世間一般で「罪」と呼ばれているものです。
ただし、聖書では……、
- 不倫をすること
- 人のものを欲しがること
- 貧しい同胞を見捨てること
などの、”法律では罰せられない精神的な罪”も含みます。

その「罪」は、法に触れるものではないため、私たちの多くが犯している「罪」でもあります。
その罪こそが「偶像崇拝」です。
「木」「石」「土」「金属」などの、人の手で作った像を信仰の対象として拝むこと。広い意味では「お金」「人*」「過去の経験」など、”神以外に信頼を置いているすべての事物”をも指す。

ギリシャ語で「罪」を意味する「ハマルティア」には、もともと「的はずれ」という意味があります。
目には見えない「本物の神」に背を向けて、木や石でできた、人の手によって作られたにすぎない「偶像」を拝むことは、まさに「的はずれ」の状態なのです。
偶像に頼る人に対する「神の心情」とは、そのような気持なのではないかと私は思います。
実際には、我々がこの地上にある限り、神の傍らにあることは、いつも同じように続く状態ではなくて、むしろそれは陽の光のように、雲だの、少なくとも霧などに邪魔されるたびに、それに応じて明るくなったり、暗くなったりしかねない。
ただし、あくまでも確固不動の真理は、すなわちこの霊の太陽は実在しており、もし太陽と我々との間に邪魔するものがなければ、それは常に輝いて見えること、また、この邪魔ものとは神の意志に背く我々自身の意志以外のものではありえないこと、である。
そしてこれが、従来の神学によって「罪」と呼ばれてきたものである。
この根本的真理はまことに何と単純なものであろう。それなのに、この真理に達するのは何と遅いことであろう。
しかもそれは、学識が足りないなどのためではなく、それどころか、あまりにも多すぎるためなのである。
『幸福論(第三部)』 ヒルティ著 草間平作 訳 岩波文庫


諸悪の根源である「アダムとエバの原罪」
旧約聖書には、人類の祖であるアダムとエバが、神から禁じられていた「木の実」を食べてしまったことが記されています。
神は、その木のことを「善悪の知識の木」と呼んでおり、エデンの園の中央に生えていたものでした。



アダムとエバの食べた実が「リンゴ」としてイメージされているのは……、
- ギリシャ神話
- 北欧神話
などに登場する「黄金の林檎(りんご)」の影響だと言われています(不死を得る果実として登場する)。
「善悪の知識の木」から取って食べるということは、神を差し置いて、自分自身が「善悪の判断基準」を持つ者となる、ということです。
それは、まさに、作られた存在に過ぎない人間が、神のようになろうとする行為だと言えます。
以下は、出典元を失念してしまったのですが「善悪の知識の木」について、以前、聞いて興味深かった話なので、ご紹介したいと思います。
【善悪】
ヘブライ語で「トーヴ ヴァーラー」。
これは倫理的、道徳的な「善悪」だけでなく「喜びと悲しみ」「幸福と不幸」「生と死」など、自然的な善悪をも含む言葉。
【知る】
ヘブライ語で「ヤーダー」。
これは「観念的に知る」と言う意味ではなく「体験的に知る」という意味を持っている。
ルカによる福音書 13:25にて「お前たちがどこの者か知らない」とイェシュアが言われた際の「知る」も、観念的に知らない、分からないの意味ではなく「関わりがない」という意味を持っている。
【食べる】
自分の内に取り入れ、血肉となることを意味する。つまり、人は食べたものを自分の一部とするのである。
聖書では「ヨハネ」や「エゼキエル」が巻物を食べた後、預言したように(黙示録10:9~11、エゼキエル2:8、3:4)、食べたものが自己の内に展開することも示されている。
つまり……、
「善悪を知る(善悪の知識を持つ)」とは「善と悪を区別できるようになる」等の意味ではなく「善と悪の原理に深く関わるようになる」ことを意味しているわけです。
ですから、その実を食べるとは……、
良きものだけが存在する「絶対的*な善の原理(命の木)」から離れ、対立物の存在する「善と悪の原理」に深く関わることを自ら選択する、という行為なのです。

人類を代表する存在であったアダムとエバは、蛇に唆(そそのか)され、この「後者の道」を選んでしまったわけです。

このことによって、人と神とのつながりは断ち切られてしまいました。
そして、神との「霊的な関係」が断絶した状態で、人が永遠に生きてしまうことがないようにと、アダムとエバは「エデン」を追放されたのです。

この、アダムとエバの犯した罪が、いわゆる「原罪」と呼ばれているものです。
日本語訳の聖書では分からないが、他言語では「2種類の罪」が「複数形」と「単数形」で、明確に使い分けられている。このことから「一般的な罪」を「複数形の罪」、「アダムとエバの原罪」を「単数形の罪」と呼ぶことがある。
アダムとエバの「原罪」が、私たちにもたらした影響


- 「死ぬ存在」となった
- 「別の存在」に地上が占拠された
- 「罪」が世に入り込んだ
神は、もともと人を「死ぬ存在」として創造したわけではありませんでした。
聖書によれば「死」は、アダムとエバが原罪を犯し、神から離れて生きるようになってから生じたものだとしています。
また、アダムとエバの原罪がもたらした影響は「死」だけではありません。
実は最初の人類が、本来のあるべき状態から外れたことによって、この世は「邪悪な霊」によって不法に占拠される形となってしまったのだと聖書は言います。

聖書では、この邪悪な霊のことを「サタン」と呼んでおり、アダムとエバを唆(そそのか)した「蛇」は、このサタンが憑依した、あるいは姿を変えた存在であると考えられています。

このように、目に見えない「霊的な領域」では「神の陣営」と「サタンの陣営」との間で、激しい攻めぎあいが起こっており、この地上は「戦いの最前線」とも言える場所なのです。
3つ目に、アダムとエバの「原罪」により「罪の性質」が、世に入り込んでしまいました。
私たちが様々な「罪」を犯してしまうのは、アダムとエバから「罪の性質」を受け継いでいるからだと、一般に解釈されています。
それを物語るかのように、早くも第2世代において、人類初の「殺人」が生じています。
アダムとエバの子である「カイン」が、嫉妬(しっと)から弟の「アベル」を殺害してしまうのです。
このように、神から独立する道を選んだ人類は、坂道を転げ落ちるかのように、ますます堕落の道を突き進み、現在にいたるのです。


- 【お腹の中で亡くなった子は「罪人」として死んだのか?】
- 上記のような「一般的な解釈」がある一方で、罪が入り込んだのは、あくまでも「世」であって、私たちは生まれながらにして「罪の性質」を受け継いでいるわけではない、とする説もあります。
–
そうでなければ、母親の胎内で亡くなったお子さんは「罪人」のまま亡くなったことになり、死後、神のいる領域へは行けないことになってしまうからです。
–
このようなことは、神の御心ではないと感じるため、今のところ、私はこちらの説を採用しています。
–
この説によれば、誕生した後、成長していく過程で「世に蔓延する罪の性質」が、人の内に入り込んでしまうのだと解釈します。つまり「お腹の中の子」や「生まれたばかりの赤ちゃん」は、罪人ではないということです。
–
ただし、過去・現在・未来という時間軸の中で生きる私たちには理解することが難しいのですが、「時間」と「空間」を越えた視点からものごとを見ておられる神の目からすれば、すべての人は、”罪を犯した存在” と言えるのです。
※ 罪が「人」の中でなく「世」に入ったことの根拠となる聖句。
このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。
ローマ人への手紙 5:12(新約聖書・新共同訳)
※ 実際に、罪を犯さなかった「無垢な人々」がいたことを示す聖句。
しかし、アダムからモーセまでの間にも、アダムの違犯と同じような罪を犯さなかった人の上にさえ、死は支配しました。
ローマ人への手紙 5:14(新約聖書・新共同訳)
この考えによれば、
アダムとエバの原罪を責める資格が、私たちにあるか?
なぜなら、彼らが「蛇の言葉」ではなく「神の言葉」を信じてさえいれば……、
- 死別の悲しみ
- 働く苦しみ
- 貧困
- 戦争
- 病
といったものは、存在しなかったからです。
私たちも完璧な存在ではなく、必ず間違いを犯すのではないでしょうか?
もちろん「あの2人も罪を犯したのだから」と、開き直って罪をいくらでも犯して良いわけではありません。
「罪を憎んで人を憎まず」という言葉があるように、私たちは「罪」を憎みながらも人を責めてはいけない、というのが聖書の教えでもあります。
罪を裁くのは神のなすべきことであって、私たちの領分ではないのです。
まとめ
- 罪には「一般的な罪」と「アダムとエバによる原罪」の2種類がある。
- 神が特に嫌われる罪は「偶像崇拝」であり、これはちょうど、子供が親の存在を無視し「ぬいぐるみ」に信頼を置くことに似ている。
- アダムとエバが「善悪の知識の木」から取って食べた = 神を差し置いて、自分自身が「善悪の判断基準」を持つ者となる、ということ。これは、人間が神のようになろうとする行為に等しい。
- アダムとエバの「原罪」によって、人は死ぬ存在となり、地上は「邪悪な霊たち」によって不法に占拠されるようになってしまった。
- アダムとエバの失敗を責めることができるほど、私たちは完璧な存在ではない。「罪を憎んで人を憎まず」が、聖書の教えである。
いかがだったでしょうか?
今回は、聖書が語る「罪」について、見てみました。
聖書によれば、生まれながらの私たちは、神とのつながりが断絶した状態にあり、そのままでは死後、神の存在する領域へは行けないとされています。
もちろん、このことを信じるも信じないも、一人ひとりの「自由意志」にゆだねられています。
しかしもし、これまでの「メシア預言」の記事を読んでみて、わずかでも「聖書」という書物に真実性を感じたとしたならば、この「罪」についての聖書の警告にも、耳を傾けてみるべきだと私は思うのです。
では次回は、この”アダムとエバの過ち”による「混沌」に終止符を打ち、私たち人類を救う「逃げ道」を備えさせるために神が送ったとされている「イェシュア」に、目を向けてみましょう。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました!

『十字架刑とイェシュアの死因について | 彼は、本当に死んだのか?』へは、下のリンクから……💤
K 【真理探究の旅】~ 聖書は信じるに値するか? No.22 ~ この記事では……、「十字架刑の実態」&「”仮死状態であった説”の医学的見地」について、お伝えしています。 「十[…]

これまでの「真理探究の記事 一覧」のページに行けるよ~♪