

この記事では、
「聖書に記された預言とは、いったいどのようなものなのか?」
ということについて、お伝えしております。
たかだか中東の、いち民族によって書かれた数千年前の書物が、歴史上 なぜこれほど多くの人々に信じられてきたのか、あなたは疑問に思われないでしょうか?
しかも「科学者」「大統領」「教職者」「弁護士」「一流のビジネスマン」等々、論理的な思考に秀でた人々をも含む、あらゆる階層の人々に聖書は信じられてきたのです。
彼らは理由もなく、この古い書物を信じていたのではありません。
この書物が「人間わざによって書かれたとは考えにくい」と判断するに至った、その主要な根拠こそが「預言」なのです。
あなたは今「神や聖書なんて、とても信じられない」と思われているかもしれませんが、無理もありません。
なぜなら、あなたはまだ聖書を信じる「根拠」については何ひとつ、情報を持っていないからです。
これから数回にわたり、私たちはこの「預言」について見ていきたいと思います。
どうぞ、できる限り「聖書」=「宗教の本」という先入観をいったん脇に置いて、「預言(予言)の本」という視点で、ながめるようにしてみてください。
今、私たちの目の前には「預言」という名の大陸が横たわって見えています。
霧がかった深い緑に覆われたこの大陸は、聖書の世界を構成しているものの中でも、最も中心的な大陸です。
ではさっそく、上陸地点へ向けて近づいてみましょう。



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聖書の預言って何?

「予言」と「預言」の違いとは?
多くの方は「よげん」と聞いて「予言」という漢字を思い浮かべるかと思います。
しかし、聖書に登場する「よげん」は「預言」という漢字で表されます。

- 「予言」…… 未来のことについて推測して言うこと。
- 「預言」…… 神から預かった言葉を人々に伝えること。
ただし、聖書の「預言」の中には未来のことを語ったものもあるため、「予言」の意味も含まれています。

一見すると、両者は似ているように見えますが、”神から受けた言葉かどうか” という明確な違いがあります。
預言者とは?
神は人に対して伝えたい言葉を、誰彼かまわず預けるのではなく、ある特定の人物を選び出して伝えさせます。
この ”神から預かった言葉を、人々に伝える役目を負った者” のことを「預言者」と呼んでいます。
「神から選ばれた」などと言うと、誰もがうらやむ特権階級のような印象を持たれるかもしれませんが、多くの預言者たちは、迫害されたり殺されたりしてきました。
彼らの多くは、イスラエルの民が神を捨て偶像崇拝に走ったり、神から与えられた律法(神の教え)をないがしろにして、異民族の習慣に染まっていたような時期に「神へ立ち返れ」とメッセージするために遣わされたからです。
あなたは、他人から耳が痛いようなことを言われた際、どのような反応を示すでしょうか?
よこしまな行いが常態化している時代にあって、正しいことを言う者は煙たがられ、叩かれるのが常です。
歴代の預言者たちも、同じように迫害されたのです。

「イスラム教」においても預言者の存在を認めておりWikipediaによれば、特に以下の者たちを「5大預言者」と位置づけているそうだよ。
- ノア(方舟で有名)
- アブラハム(イスラエル・アラブ人の祖先に当たる人物)
- モーセ(モーセの十戒で有名)
- イェシュア(イエス・キリストのこと)
- ムハンマド(イスラム教の創始者)

聖書全体の27%もの部分を預言が占めている
聖書という書物が「道徳的な教えだけが羅列された”宗教の書物”」ではなく
「今後の世界の成行きを啓示した”預言の書物”」であることは、以前にもお話しましたが、
この「預言」は、聖書全体の27%もの割合を占めていると言われています。

もし、この「預言」がなかったならば、聖書は他の宗教の聖典と、さほど変わりはなかったでしょう。
また、キリスト教も今日のような拡大は見せていなかったはずです。
なぜなら「イェシュアがメシアである」という根拠が、根底から崩れるからです。
聖書が、他の書物と一線を画しているゆえんであり、また、神からの言葉であることの ”動かしがたい 唯一無二の証拠” こそが、この「預言」なのです。
具体的にどのような預言が記されているのか?

《 目次:聖書に記されている預言 》
①【メシアに関する預言(メシア預言)】


これまでの記事で見てきたように、
「メチャクチャになってしまった世の秩序を、再び立て直す人物(メシア)を遣わす」というのが、神の主要なメッセージです。
聖書には、この「メシア」なる人物が登場した際に「彼がその人物だ」と、私たちが判断できるよう、多角的に預言されています。
それは例えば、以下のような預言です。
- どの部族から出るか。
- どの家系から出るか。
- どこの町で生まれるか。
- いつごろ生まれるか。
- 人々から、どのような扱いを受けるか。
- ユダヤの伝統的な処刑法の「石打ち」ではなく「刺し貫かれる」こと。
- 彼が、何のために死ぬのか。
- 彼の手によって、神の望んでいたことが成し遂げられること。

この「メシア預言」についてだよ。
② 【世の終わりに関する預言(終末預言)】
聖書には「この世のはじまり」~「この世の終わり」まで、さらには その先の世界に対しての言及がなされています。
ただし、聖書の言う「世の終わり」とは「人類が滅び去ること」を意味しているのではありません。
終わりの時代には、人類の半数という、非常に多くの人々が亡くなると預言されてはいるものの、人類全体が消滅してしまうわけではないのです。
聖書の言う「世の終わり」とは、
「それまでの秩序が崩壊し、本来、神が定めた秩序が取り戻されること」を意味します。

- ひとりの独裁者(666)が登場し、世界統一政府が樹立される預言。
- 独裁者らによって、世界統一宗教なるものが樹立されるらしい預言。
- 額か右手に独裁者の刻印*がなければ、物の売買ができなくなる預言。
- 独裁者を崇めることが強要され、神およびメシアを信じる者たちが迫害・殺される預言。
- 太陽・月・星々等、天体に異常が起こるという預言。
- ハルマゲドン=ハルメギド(メギドの丘)にて、最終戦争が起こる預言。
* 「刻印」が具体的に何を意味しているのかは不明。「マイクロチップ」や「電子タトゥー」「バーコード」など、さまざまな説がある。今後、物理的な紙幣が無くなり、手に埋め込んだマイクロチップ等を用いて物の売買をするようになるという未来は十分に考えられる。ちなみに、上記に挙げた預言はすべて、今からおよそ、1900年ほど前に預言されたものです。


③【イスラエルに関する預言】
”本来の在り方から離れてしまった人類を、1つの民族を通して救い出す” というのが、神の壮大な計画です。
それゆえ聖書の中の物語も、神が選んだこの1つの民族を中心に語られていくわけですが、自然、この1つ民族――イスラエル民族に対する預言も、聖書の中には多く登場します。

- イスラエル民族の不正を指摘した預言。
- 「神に立ち返れ」との呼びかけの預言。
- イスラエルと他国との関係についての預言。
- 神の呼びかけを拒み続けた為、この民が世界中に散らされるという預言。
- 世界中に離散した民が、再び元の地に集められるという預言。
前回の記事で見たように、イスラエルの歴史とは繰り返し神から離れ、”神の教えを守って生活していく” という神との約束(モーセ契約)を破り続けるような歩みでした。
参考:『【要約】聖書ってどんな内容? あらすじを分かりやすく解説』
ですから、聖書の中には「神へ立ち返れ」という、神の切実な呼びかけの預言が何度もなんども登場します。
また、”イスラエルと他国との関係につての預言” の中でも特に注目すべきものとして「エゼキエル戦争」が挙げられます。
これは「ロシアがイランやトルコ等*、複数の国々と共にイスラエルへと侵攻する」というもので、まだ成就していない預言です。
そして、これまでの歴史上、犬猿の仲であったロシアとトルコが親密な関係となっているなど、現在の世界情勢は、この預言の成就に向けて着々と舞台が整えられつつあると言われています。
* 聖書の中において これらの国々は「マゴグの地のゴグ」「ペルシャ」等、当時の地名で登場します。
④【個人に対する預言について】

- アブラハムに対する祝福の預言。
- サウルに対する呪いの預言。
- マリアに対する苦難の預言。
- ペテロに対する離反の預言。
- イスカリオテのユダに対する裏切りの預言。
【アブラハムに対する祝福の預言】
「私はあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。――地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る」
創世記 12:2~3
「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるが良い。
――あなたの子孫はこのようになる」 創世記 15:5
アブラハムは、今からおよそ4000年ほど前の人物とされ、イスラエルの民(ユダヤ人)とアラブ人たちの祖だと言われている人物です。
神は彼と契約(アブラハム契約*)を結び、祝福を預言しました。
* この契約は、神の側のみが債務を負担するという「片務契約」であった。
【サウルに対する呪いの預言】
「主の御言葉を退けたあなたは、王位から退けられる」
サムエル記上 15:23
「主はあなたのみならず、イスラエルをもペリシテ人の手に渡される。
明日、あなたとあなたの子らは私と共にいる」※
サムエル記上 28:19
※ 口寄せによって呼び出された預言者サムエルの霊が、イスラエル初代の王サウルに対して語った預言。
【マリアに対する苦難の預言】
「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。あなた自身も剣で心を刺し貫かれます」※
ルカによる福音書 2:34~35
※ 生まれて間もないイェシュアと共に神殿をおとずれたマリアが、預言者シメオンによって言われた言葉。
【イスカリオテのユダに対する裏切りの預言】
「『はっきり言っておく。あなたがたのうちのひとりが私を裏切ろうとしている』
――イェシュアは『私がパン切れを浸して与えるのがその人だ』と答えられた。それから、パン切れを浸して取り、イスカリオテのシモンの子ユダにお与えになった」
ヨハネによる福音書 13:21.26
【ペテロに対する離反の預言】
「するとペテロが『たとえ、みんながあなたにつまずいても、私は決してつまずきません』と言った。
イェシュアは言われた。『はっきり言っておく。あなたは今夜、にわとりが鳴く前に、3度私のことを知らないと言うだろう』」※
マタイによる福音書 26:33~34
※ ユダの裏切りによって捕らえられる数時間前の会話。イェシュアは「私は羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散ってしまう」という旧約の預言を引用し、自分が捕まった際、弟子たちが皆 逃げ出してしまうことを予告した。

聖書預言の中には「象徴的」に語られているものが多くある
預言の中には「一見、何のことを言っているんだか分からない」と思えるものが多くあります。
それは、あることを示す際、別のものに置き換えて「象徴的」に啓示する、ということがなされているからです。
しかし、聖書の預言はなぜ、誰もが理解できるような形で語られず、このようにあえて分かりづらい表現で啓示されているのでしょう?
あるとき弟子たちは、イェシュアに
「なぜ、人々に対しては、たとえ話を用いられるのですか?」と たずねました。
彼は民衆に対して語る際、真意をつかみにくいような「たとえ話」を多く用いていたからです。
弟子たちの質問に対する彼の答えは以下のようなものでした。
「あなたがたには神の国の秘密を悟ることが許されているが、他の人々には たとえを用いて話すのだ。それは、『彼らが見ても見えず、聞いても理解できない』ようになるためである」
ルカによる福音書 8:10
これは「聞く耳を持つ者」に対しては真実が開示される一方、そうでない人々――つまり、神の存在や神の言葉をあなどり、神を信じる者たちをバカにするような人々に対しては、その真意が隠されているという意味です。
人のお金をだまし取ったり、人を平気で傷つけたり、利己的で自己中心的な人たち――神から離れた世俗的な人たちからすれば、聖書の預言など「意味不明で何の価値もないもの」にしか見えないことでしょう。
このように聖書の預言のかなりの部分が、神をないがしろにする人たちには あえて理解できないようになっているのです。
これは一見すると、愛や思いやりのない行為のように見えますが、将来「心根のやさしい者たちや、繊細、純粋な心を持った者たち」が、
「いじわるな者、利己的な者、攻撃的な者たち」と同じ世界で暮らすことのないようにという、神の深い愛の配慮なのです。
神が聖書の中に、これほど多くの預言を散りばめた2つの理由

神はいったい何のために、預言というものを聖書の中に織り込んだのでしょう?
その答えは「逆に預言が織り込まれていなかったとしたら、聖書という書物はどのように評価されただろう」と問うことによって、見えてきます。
では、神が預言を残した「主な2つの理由」を、以下に見ていきましょう。
【神が預言を残した理由①】聖書が神からのメッセージだと、私たちが信じられるようにするため
もし預言がなかったならば、聖書は「興味深い神話の織り込まれた、イスラエルの国史」程度の評価しか下されなかったことでしょう。
少なくとも、これが神の言葉であるなどと信じる者は一部の狂信的な人たちのみで、歴史上 これほど膨大な数の人々が、この書物に魅了されることはなかったはずです。
つまり神は、私たちが神の存在を信じることができるようにと、預言を残したのです。
聖書に記された預言が実際に成就するのを見れば、それは「動かしがたい証拠」となります。
このような「証拠」なしに聖書の記述を信じるなど、どうしてできるでしょう?
”誰も否定しようのない動かざる証拠” 、これこそが「預言」の役割なのです。
このような乱れた時代にあっては、神を信じることが出来ないのも無理はありません。
世界を見渡せば、神がいるとは思えないような出来事で溢れているからです。
しかし「神がいるなんて信じられない」という方には、せめてこの「預言」を調べることによって判断すべきだと、私は強くおすすめいたします。
イェシュアも、以下のように語っています。
† もし、わたしが父の業を行っていないのであれば、わたしを信じなくてもよい。しかし、行っているのであれば、わたしを信じなくても、その業を信じなさい。
ヨハネによる福音書 10:37~38


上記は「預言」について語ったものではありませんが、これから私たちが「預言」というものを実際に考察していくにあたって、ヒントとなる言葉だと思います。
預言がはずれているのであれば、聖書を信じる必要など毛頭ありません。
しかし、実際に預言が、これまでにことごとく成就してきているのであれば、私たちは聞く耳を持つべきなのではないでしょうか?
【神が預言を残した理由②】神の計画を伝え、これから起こることに備えさせるため
聖書には「世の終わり」と呼ばれている時代に起こる事柄や、神が人類に対して遣わすと約束された「メシア」に関する預言が散りばめられていることは、すでにお伝えしたとおりです。
これらの預言の中には、実際にそのことが起こる数百年前、長いものでは数千年も前に書き記されたものがあります。
あなたは、来年の今ごろ、自分がどのような状態にあるか、今と比べ人生がどのように変化しているか正確に予測できるでしょうか?
人が数年後の未来を、ほんの少しの誤りもなく予測するのは至難の業です。ましてや、百年後の未来ともなれば不可能でしょう。

ひるがえって聖書は、数千年も後の事柄をも前もって記し、それらがその後の歴史において、ことごとく成就してきているのです。
そして、聖書預言の中には、これから成就するとされている預言が数多く残っています。
「過去の預言が成就してきたのであれば、未来の預言についても成就する可能性は極めて高い」と考えるのが、もっとも自然で、合理的な考え方と言えるのではないでしょうか?
聖書の預言によれば「世の終わり」の最後に「艱難時代(かんなんじだい)」と俗に呼ばれる、人類がこれまでに経験したことのないような、非常に厳しい「最後の7年間」が待ち受けているとされています。
また何よりも、私たちの死後の運命は「この地上にいる間に、神のもとへ立ち返ったかどうか」によって、天と地ほどの差が生じてしまうのだとも語っています。
だからこそ神は「神を信じる謙遜な者たち」に備えさせるため、”預言の成就という否定しようのない証拠” を残したのです。
果たして聖書の預言を「偶然」や「でっち上げ」で片付けられるか?

全世界および、全時代のクリスチャンたちの信じてきたことが、もし
「単なる気休めの良くできた教義」や「現実逃避のための哀れな狂信」に過ぎないのだとしたら、
例えば「メシア預言」がことごとく成就している事実を、どう説明したら良いのでしょうか?
無神論者や聖書に懐疑的な人々は「単なる偶然だ」と一蹴するでしょう。
あるいは「あたかも預言が的中したかのように、でっち上げられたものだ」と主張することでしょう。
しかし、これらの預言を入念に調べた私たちクリスチャンには、それらが「偶然の一致」だとはどうしても思えないのです。
ちなみに、ユダヤ人とキリスト教徒が共謀して預言を捏造したのではないかという疑いに対し、パスカル*はその著『パンセ』の中で、
「神から預言を託された当のユダヤ人の大半が、預言によって予告されているメシアを認めていないという事実が、この疑いを払拭する」
という趣旨のことを言っています。
* 優れた物理学者であり、哲学者、数学者、思想家等、多彩な才能を有し、また、敬虔なクリスチャンでもあった、ブレーズ・パスカル(圧力の単位であるヘクトパスカルの名前の由来にもなっている)。


これから私たちは、数回にわたって、メシアに関する預言を見ていきたいと思います。
それらの預言の成就が「ただの偶然」か、それとも「何らかの真実が含まれている」と見るかは、どうぞ一人ひとりがご自身で判断してみてください。
しかし、私は確信しています。あなたがもし、聞く耳を持った羊であるならば、そして、先入観や偏見を脇に置いて、曇りのない心で調べてみるならば、必ずやそこに、何らかの真実性を見出すことでしょう。
私は、その人たちのためにこのブログを書いているのです。
† 私は良い羊飼いです。私は自分の羊たちを知っており、私の羊たちにも知られています。――また私には、この囲い*に属していない他の羊たちもいます。私は、彼らも連れて来なければなりません。彼らは私の声に耳を傾けるでしょう。こうして一つの群れ、一人の羊飼いとなるでしょう。
ヨハネによる福音書 10:14.16
* 「この囲い」…… ユダヤ教のこと。
まとめ
- 預言者たちは、事あるごとに神から離れてしまうイスラエル民族を立ち返らせるために、各時代に遣わされた。
- 聖書が神からのメッセージであることの動かしがたい証拠こそが「預言」
- 預言の一部は「象徴的」に書かれているが、それは「聞く耳を持つ者」のみに真実を開示するため。
- 私たちが「聖書をとおして神の存在を信じられるよう」そして「厳しい運命から逃れさせるため」に、神は預言を残した。
- 何の根拠もなしに神を信じるのは難しい。「神がいるなんて信じられない」という人は、せめてこの「預言」を調べることによって判断すべき。
では、次回から「メシア預言」について見ていきましょう。長い記事を最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

『聖書とは、ひとことで言えば「メシアについての書物」である』へのリンクは、下にあるってよ。
眠れる羊くん この記事の内容は、動画でも観れるよ♪ https://youtu.be/8ve55IStXmQ K ~ 聖書は信じるに値するか? No.6 ~ […]

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