人生とはスピリチュアルな戦いである。究極的には誰も助けてはくれない

居眠りしている羊(右向き)眠れる羊くん
この記事の内容は、動画でも観れるよ♪




聖書を信じる羊(右向き)K
~ 聖書は信じるに値するか? No.3 ~


こちらの記事では、
「私たちは、目に見えない世界と深く関わっているため、霊的な知識が不可欠である」ということをお伝えしております。


こういった話題に関しては、「バカらしい」と思われる方もいらっしゃることでしょう。


しかし聖書という書物自体、完全にスピリチュアルな書物ですので、このテーマは避けては通れないものなのです。


逆に、スピリチュアルな世界にすこしでも興味をもたれている方にとっては、今回の記事は、今後、正しい霊的な知識をたくわえていく上で、1つの重要な指針となるかもしれません。

もしもこの人生は単につかの間の動物的存在にすぎず、その他に何らの使命もないものだとしたら、人間はいったい何にうながされて、生涯にわたって、自分自身とまわりの世界とを相手にして、初めはほとんど見込みなく見えるほど苦しい戦いをあえてする気になるだろうか。

『幸福論(第二部)』 ヒルティ著 草間平作 訳 岩波文庫




聖書を信じる羊(右向き)K
では、はじめましょう。

誰か助けて | 人生はスピリチュアルな戦いだと知る必要がある

誰の助けもない、スピリチュアルな戦場にいる私たち。


多くの方は「スピリチュアル」という言葉を耳にしたことがあるかと思います。


しかし、「なんだかあやしい」「うさん臭い」と思われている方も多いのではないでしょうか?


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ちなみに、Wikipediaによれば、英語のスピリチュアル(spiritual)は、「霊的であること」を意味するラテン語の「spiritus」に由来するキリスト教用語からきているそうです。


居眠りしている羊(左向き)眠れる羊くん
へえ~、「スピリチュアル」ってキリスト教用語からきてたんだ💡


聖書によれば、私たちはもともと霊的な存在であり、この体は霊を入れる「容れ物」のようなもの、 また、神聖な霊が宿るための「神殿」であるとしています。

目には見えない世界、つまり死後の世界が存在するかどうかによって、


あるいは私たちが肉体的・物質的な存在にとどまらず、霊的な存在でもあるかどうかによって、私たちの地上での生き方は大きく変わってくるはずです。


このように、スピリチュアルな事柄に関するテーマは、私たちの人生の根幹に関わる重要なテーマなのです。

きみがこれまで受けた教えから、もはや何も知ることは残されていないという結論を引き出してはならない。きみにはまだ無限に知ることが残されているのだ。

『パンセ(中)』 パスカル 著 塩川徹也 訳  岩波文庫



スピリチュアルな世界(死後の世界)は存在するか?


居眠りしている羊(右向き)眠れる羊くん
スピリチュアルな世界が本当にあるかなんて、結局、誰にもわからないんだから、いま目の前にある現実に目を向けるべきなんじゃないの?



眠れる羊くんのように、スピリチュアルな世界を信じる人たちのことを「単に現実逃避している人たち」というふうに捉える人たちも多くいるかと思います。


では仮に、そのような見えない世界があった場合と、そうでなかった場合の違いに注目してみることにしましょう。

存在しなかった場合

  • 死後、私たちは無になるのみ。
  • よって、生前どのような生き方をしていたにせよ、関係なし。
  • 死後の世界(聖書)を信じていた者たちも、無になるだけなので後悔のしようもない。


存在した場合

  • 死後、私たちは消滅せずに、別の形で存続することになる。
  • 聖書の記述どおりに死後の世界があったのだから「死後の裁き」の可能性についても濃厚になる。
  • 死後の世界(聖書)を信じていた者たちが「天の御国」に入る可能性も濃厚になる。
  • 既に人生は終わり、後戻りはできない状況なので、聖書の言葉に耳を傾けることができなかった人たちは、成すすべがなくなってしまう。



居眠りしている羊(右向き)眠れる羊くん
存在しなかった場合は何てことないけど、
存在した場合……。



そう、問題は「死後の世界」が存在した場合、聖書の他の記述に対しても、信憑性が一気に高まり、


「生前の生き方」が、その人の死後の状態に、取り返しのつかない致命的な結果をもたらすかもしれない、という点なのです。

それはちょうど、裁判にて、ある人の証言が一笑に付されたにも関わらず、後日、その証言の1つが真実であったことが判明し、その人の残りの証言についても信憑性が一気に高まるようなものです。


居眠りしている羊(右向き)眠れる羊くん
でも、か、可能性でしょ💦 飽くまでも……。


たしかに、飽くまでも「可能性」ではあります。


ただし「スピリチュアルな世界なんてあるわけない」と決めてかかり、聖書の助言にも耳を貸さなかった場合には、あまりにもハイリスクな「賭け」となる可能性ですが……。


聖書を信じる羊(右向き)K
眠れる羊くんも強情だねぇ。ヒルティさんも下のように言ってるよ。


今日、一切の宗教的もしくは哲学的問題の核心を、「目に見える世界の他に、目に見えぬ世界を信ずるか否か」という問いに絞ることができる。

(略)

もし目に見えぬ世界を信じないとしたら、我々は多くの抜け目なさと骨折りを費やして、しかも同時に、他人に対する多くの恐怖と冷酷を持って、これという最後の目当てもない人生を押し渡ろうと試みなければならない。

そしてその際、さまざまな困難をせめて刹那的にいくらか埋め合わせるために、何か享楽が必要になってくる。

(略)

反対に、目に見えぬ世界を信ずる場合は、すでに現世において自己の存在の一部を持って、より良き世界秩序の中に生きることができ、地上のあらゆる欠陥に耐えることを学ぶ。

『幸福論(第三部)』 ヒルティ著 草間平作 訳 岩波文庫


なぜ、洋の東西を問わず、昔から幽霊のはなしが世界各地で存在するのでしょうか?


また、霊能者や霊媒師が存在し、黒魔術や降霊術などが存在するのでしょうか?(ちなみに、これらはすべて、聖書では固く禁じられているものです)


スピリチュアルな世界が存在するかどうかは、今のところ、科学では証明されてはいませんが、どうひいき目に見ても、あるという前提で生きた方が得策と言えるのではないでしょうか?


聖書を信じる羊(右向き)K
最終的にどちらの道を選択するかは、
1人ひとりの「自由意志」にゆだねられているよ。



人生がスピリチュアルな戦いだと考えるべき「4つの根拠」


《 目次:戦いと考えるべき4つの根拠 》

  1. 戦いでなければ、人生がこれほど困難に満ちている理由が不可解
  2. この世が不正と悪に満ちているという事実が敵地にいる事を予感させる
  3. 意識せねば「堕落」「怠慢」に傾くという人の性質が、戦いであることを暗示している
  4. 神が人を成長させようと思った場合「平安の地」よりも「戦いの場」の方が適する



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じゃあ、1つひとつ、もう少し詳しく見てみよう。



①【戦いでなければ、人生がこれほど困難に満ちている理由が不可解】


「順風満帆で、何の悩みも憂いもない」という方は、ほとんどいらっしゃらないのではないでしょうか?


人生がスピリチュアルな戦いでなかったとすれば、生きることにこれほど困難がともなうことの説明がつきません。


人間は、何よりもまず恐れることなきものにされねばならぬ。なぜなら、正しい人生はすべて戦いであって、不断の平安ではないからである。 

『幸福論(第二部)』 ヒルティ著 草間平作 訳 岩波文庫


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②【この世が不正と悪に満ちているという事実が敵地にいる事を予感させる】


聖書によれば、この世は本来、人が支配すべき場所であったのですが、今現在「悪い霊的な存在によって、不法に占拠されている状態」だとしています。

つまり、世から離れて「神の陣営」についた者は「敵地」にいることになるのです。


この教えを背景に置くならば、正しいことを主張する者が叩かれたり、不正な行いがまかり通っている事実にも、納得がいきます。



居眠りしている羊(右向き)眠れる羊くん
神がいるんなら、どうして悪の支配なんかゆるしてるわけ?そんなの矛盾してるじゃん!



眠れる羊くんの言うことはもっともです。


まさにこの点こそが、多くの人たちが神の存在を疑ってしまう「つまづきの石」なのですから。

しかしすべては、この世から悪を一掃し、再びもとの秩序を取り戻すための「壮大な計画」の一部なのです。


聖書とは、この「神の壮大な計画」を私たちに啓示した「計画書」でもあります。


このような計画に希望をおいているか、あるいは感覚が麻痺しているのでもなければ、どうして厭世主義におちいらずに世をわたっていくことなどができるでしょう。


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この点については、別の記事で詳しく取り上げるよ。


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③【意識せねば「堕落」「怠慢」に傾くという人の性質が、戦いであることを暗示している】


安穏とした生活を続けていた場合、私たちは よほど注意しなければ、自堕落な生活へと流されてしまうものです。


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年末年始なんかの長期休暇中に、すっかり生活がだらけてしまうような経験は、多くの方がしているのではないでしょうか?


日常の中に「不断の戦い」という要素が織り込まれていることで、私たちはそうした「自堕落」から守られている、と言うことができます。


”注意を払わなければ健全な状態を保てない”という現実が、我々の人生がスピリチュアルな戦いであることを暗示しているのです。

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④【神が人を成長させようと思った場合「平安の地」よりも「戦いの場」の方が適している】


スピリチュアル系の書籍やメディアにおいて「この世は魂の学びの場」であるというようなことがよく言われますが、


これは「人生がスピリチュアルな戦いである」という教えとも合致します。


なぜなら、私たちは順境においてよりも、逆境の中においての方がより深く、また多くのことを学ぶものだからです。


このように、私たちが成長に適した きびしい環境に身を置いているという事実も、人生がスピリチュアルな戦いであることの根拠だと言えます。

「この世の霊」の力はきわめて強大である。幸いにも、我々はこのことを、実生活においてゆっくり少しずつ経験してゆくので、もしそうでなかったら、おそらく誰でも、この霊と戦う勇気を失うであろう。

けれども、それよりもさらに強大な一つの力がある。それは神の力であって、(略)人の心の中に生きて働く力なのである。


『幸福論(第二部)』 ヒルティ著 草間平作 訳 岩波文庫


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誰も助けてはくれない | 聖書によってスピリチュアルに武装せよ!

誰の助けも得られない状況の中、スピリチュアルに武装する男。


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仮に100歩ゆずって「人生がスピリチュアルな戦い」であったとしてもさ、それでどうしろっていうの? そもそも敵は見えないわけでしょ?


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だからこそ、まずは「霊的な知識」をつける必要があるんだよ。それじゃあ、次は そのへんのことを見てみよう。


スピリチュアルな知識がなければ敵に翻弄されてしまう


たとえば、格闘技の選手が……

  • 戦いに関する基本的な知識やスキル
  • ガードの知識やスキル
  • 敵との適切な間合いのとり方
  • 寝技から抜け出すための知識やスキル



等をまったく知らない状態でリングに上ったとしたら、どうなると思いますか?


”スピリチュアルな知識を身につけずに人生を生きる” とは、まさにそのような無謀な状態といえるのです。


あなたはこれまで、”説明はできないけれど、偶然とは言い難い不可抗力のようなもの” によって、影響を受けたと感じるような経験をされたことはありませんか?


かく言う私も、かつて「自分の人生は、呪われている」と思わずにはいられないような感覚を、しばしば抱いたものです。

私の場合「神の存在」に注目するよりも「悪い霊的な存在って、もしかしたら本当にいるんじゃないか?」という所から、スピリチュアルな領域に注目しはじめたと言えます。


要するに「悪い霊が存在するなら、善い霊たちや神も存在するのではないか?」といった具合です。



カール・ヒルティは以下のように語っています。

悪は、なんら抵抗しない臆病者に対してのみ、力を揮うものである。 

『幸福論(第二部)』 ヒルティ著 草間平作 訳 岩波文庫


「どんなことがあろうと、なすべきことをなせ(フランスの諺)」人生においては、こういう不動の鉄則が唯一の救いであるような瞬間があるものだ。暗黒はたいてい、断固たる抵抗に会うや否や退散するものである。

『幸福論(第二部)』 ヒルティ著 草間平作 訳 岩波文庫


そう、実はこの「悪の力」に対して、私たちは抵抗することができるのです。


そして、そのためにぜひとも私たちに必要なものこそが「正しい霊的な知識」なのです。


スピリチュアル(霊的)な戦いにおいて聖書の知識は不可欠


ここまで読んでくださったあなたには、もう察しがついていることでしょう。


つまるところ「正しい霊的な知識」をつける教科書の、最たるものこそが聖書なのです。

しかも、この聖書の教えを人生の土台とし、霊的な知識が身についてくると、「よこしまな霊」いわゆる「悪霊」と呼ばれる者たちのベールは剥がれ落ち、


”神の力の前で彼らは無力であること”、”私たちが神の陣営に属しているならば、恐れなくてもよいこと” が分かるようになります。


聖書を信じる羊(右向き)K
ヒルティさんも、同じようなこと言ってるよ!


神は、神に信頼する人の敵に、もれなく目を注いでいられる。敵は、神が許さぬ害をその人に加えることはできない。だから、少しも恐れる必要はないのだ。

『幸福論(第二部)』 ヒルティ著 草間平作 訳 岩波文庫



居眠りしている羊(右向き)眠れる羊くん
霊的な知識なんて、ちまたにあふれてるじゃん。
べつに聖書である必要ないんじゃない?



もしかしたら、あなたも眠れる羊くんのように思われたかもしれません。


しかし、そういった物の多くは「まがい物」か「聖書の焼き直し」にすぎないのです。

わざわざ2次情報、3次情報に触れずとも、比類なき1次情報の記された「本家本元の霊的教科書」である聖書を読むのが、もっとも近道なのです。



ここで、ひとつ注意点があります。



さきほど「悪い霊たちを恐れる必要はない」と言いましたが、悪霊は私たちよりもはるかに力がある、という点です。


居眠りしている羊(右向き)眠れる羊くん
!?  どういうこと?


それはつまり、”私たちは自分の力で戦ってはいけない” ということです。

神に立ち返っていない人たちはもとより、たとえ、神の陣営に立ち返ったクリスチャンであったとしても、


自分の力で戦おうとしたり、ましてや面白半分で自ら戦いを挑んだりなどは、けっしてすべきではないということです。


勘違いしてはいけないのは「私たちに力がある」のではなく、飽くまでも「神に力がある」という点なのです。


この1点さえ踏み外さなければ、私たちは敵の力を恐れる必要はありません。


聖書を人生の土台とすることで私たちは、これまで無知のせいで翻弄され、傷だらけになっていたような生き方から、


スピリチュアルに武装し、すこしずつ敵のちょっかいを はねのけることができるようになっていくのです。


ちなみに聖書では、この邪悪な霊たちの中心人物の名を「ベルゼブル」と呼んでいる箇所があります。


イスラエルの民は、これをもじって「ベルゼブブ(ハエの王)」と呼びました。まさに悪霊たちとは、臭いものにたかるハエのような存在です。


しかし一方でそれは、私たちの内面に彼らを引き寄せてしまう「汚物」があるからでもあることを、けっして忘れてはいけません。


敵に向かって進むときは、傲慢であってはならぬ。傲慢は没落の一歩手前である。小胆であってもいけない。それは神を辱める。

だが、何よりも罪に陥らぬよう用心せよ。罪は悪と戦う力を奪うものだ。悪は、おのれの縄張りでは大胆不敵だが、その外では無力で臆病である。

『幸福論(第二部)』 ヒルティ著 草間平作 訳 岩波文庫



≫ 見えない敵に翻弄されないための ” 聖書的 スピリチュアルガイドブック ”
『ピスティスの力』



まとめ

人の助けに依らず、神の助けによってスピリチュアルな戦いを勝ち抜く。


  • スピリチュアルな事柄に関するテーマは、私たちの人生の根幹に関わる重要なテーマ。

  • 「死後の世界」が存在した場合「生前の生き方」が、その人の死後の状態に、取り返しのつかない致命的な結果をもたらす可能性が出てくる。

  • 人生がスピリチュアルな戦いであることは、私たちの人生や、取り巻く環境を見れば明らかである。

  • 格闘家に「戦いの知識」が必須であるように、私たちにも「霊的な知識」が必須である。

  • 「正しい霊的な知識」を身につける、最高の教科書こそが聖書。


いかがだったでしょうか?


今こうしている間にも、私たちが意識するしないに関わらず、1人ひとりがスピリチュアルな戦いの場に身を置いているのです。

これは、待ったなしの問題です。反面、信じるも信じないも、それぞれの自由意志によることでもあります。


「正しい霊的な知識を身につけて、地に足の着いた人生を生きたい」と思われている方は、今後も私たちとともに、聖書を紐解くこの旅をすすめていきましょう。


最後までお読みいただき、ありがとうございました!


居眠りしている羊(右向き)眠れる羊くん
~ 聖書は信じるに値するか? No.4 ~
『【要約】聖書ってどんな内容? あらすじを分かりやすく解説』へのリンクは、下にあるってさ。


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居眠りしている羊(右向き)眠れる羊くん
あ、そうそう。
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私たちは皆、究極的には誰の助けも得られないスピリチュアルな戦いの中にいる。
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『私は良い羊飼いです。私は自分の羊たちを知っており、私の羊たちにも知られています。――また私には、この囲いに属していない他の羊たちもいます。私は、彼らも連れて来なければなりません。彼らは私の声に耳を傾けるでしょう。こうして一つの群れ、一人の羊飼いとなるでしょう』                 John 10:14.16(K.J.V + Nagai)


『あなたがたは、迷い出た羊のようでしたが、今や、羊飼いであり、あなたがたの魂の監督者である方のもとへと帰ってきたのです』
                1 Peter 2:25(K.J.V)

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