
「あなたは、死んではいけないこと」
「死を望むほどに苦しんでいる時、実は今まで気づけなかった扉を開くためのチャンスでもあるのだということ」
をお伝えしています。
もし、「お前に、死にたい人の気持ちの何が分かるんだっ」と思われる方がいらっしゃるようでしたら、以下のプロフィールをご覧になって下さい。
私も、同じような立場にいたことが、分かってもらえるかも知れません。
大丈夫です。あなたは今の暗闇から抜け出すことができます。
私は自分の経験から、今、確信をもってあなたにこう言うことができます。
「そこから抜け出す道は、確かに存在している」と。
このブログでは…… 、
「宗教とは距離を置きつつ、聖書を人生の土台として生きる」
ことを提案しています。
詳しくは「目的のページ」をご覧ください。



※栄養素等表示基準値に基づき、脂質・飽和脂肪酸・n-6系脂肪酸・炭水化物・ナトリウム・熱量を除いて、すべての栄養素で1日分の基準値の1/3以上を含む。
この国では「死にたい、助けて」という声なき叫びが渦巻いている

この記事を読んでいる方に、まず知っておいていただきたいことは、
「死にたい」という気持ちを抱くことは、なにか常軌を逸したような特別なことではない、ということです。
さらに自殺は、10~14歳という若年層においてすら、死因の第2位となっているのです。この国に住む若者~成人の死因の第1位が”自殺”であることは、どう考えても異常な事態です。
※ 上記の順位は、厚生労働省による政府統計、『令和元年(2019年)人口動態統計月報年計(概数)の概況』からのデータ。

【参考】:厚労省による、令和元年(2019) 人口動態統計月報年計(概数)の概況
上記の統計を実際に見て、
- 15~19歳
- 20~24歳
- 25~29歳
- 30~34歳
- 35~39歳
における、”死因第1位がすべて自死” という結果に異常な感じを受けるのは、私だけではないはずです。
このようなデータを見なければ、「死にたい」なんて思っているのは私だけだ、と思ってしまうかもしれません。
しかし実際には、口にできないだけで、あるいはそうでないそぶりを装っているだけで、”死ねないから生きているだけ”という人が想像以上に多いのかもしれないのです。
ですから、異常なのは「死にたい」と思っているあなたの方ではなく、そのような感情へ人々を追い込んでしまっている”社会”の方なのです。
死にたい= 死が目的ではない。本当は誰だって生きたいはず

「死にたい」とひとくちに言っても、その理由や原因はさまざまです。
この記事を読んでくださっている方の中には、精神的な問題を抱えている方や、肉体的な病に苦しんでいる方もいらっしゃるかと思います。
また、お金がなくて経済的に追い込まれている方や、いじめで苦しんでいる方もいるかもしれません。
かく言う私も、「死にたい」という思いにさいなまれていた者のひとりです。
おそらく、私の周囲にいた人たちは、まさか私が自殺願望を抱いているだなんて、思ってもみなかったと思います。
外見では、その人が自殺を考えているかどうか分からないこともあるものです。
ですから経験した者として、私には分かります。
あなたは、本当は生きたいのではないですか?
あなたが「死にたい」と思っていることの動機は、「死にたいから」ではなく、
「今の苦しみから逃れたいから」なのではありませんか?
ならば、私はあなたに言います。
「あなたは、死んではいけません」
なぜなら、その暗闇から抜け出す道が存在するからです。
私は、想像や慰めで言っているのではありません。
自分自身が経験したから知っているのです。
このブログは、まだ立ち上げてから間もないものですが、これから私は、その道を順序立てて、お伝えしてゆくつもりです。
これは「宗教の話」ではありません。宗教という枠におおい隠された”あなたの人生に関わる話” なのです。
「死にたい…助けて」と叫ぶあなたの手には今、鍵が握られている

あなたはきっと、頑張りすぎてしまったのです。
私自身そのような性格で、ときおり疲れてしまうことがあります。日本人に自殺者が多いのは、そのような生真面目な国民性も影響しているのかもしれません。
きっとあなたは、これまで苦しみから抜け出そうと、ありとあらゆることを試してみたのではないでしょうか?
そして、それらはことごとく失敗してきたか、ほとんど何の効果も変化ももたらさなかったのではないでしょうか?
いろいろ試したけど、すべて駄目で、もう他にどうして良いか分からず、最後の選択肢として自殺を考えているのではありませんか?
私の場合はそうでした。
しかし、もしあなたがクリスチャンではないのであれば、「神に賭ける」という選択肢を、試してみるべきです。
そもそも私自身、キリスト教徒ではありませんし、あなたがキリスト教徒になろうがなるまいが、私には何のメリットもないのですから。
その上で私は、「死を選ぶ前に、聖書の語っていることが真実かどうか、だまされたと思って確かめてみるべきだ」と強く主張します。
信仰によって憂いから逃れる経験は、誰でもみな自分でするに違いないし、また何をおいてもまず経験してみたいと思わずにはいられないはずなのに、なぜそれをあれほどひどく忌み嫌うのだろうか。
憂いのために時には絶望に至るまで苦しめられる人々が、死ぬかわりに、なぜせめてそうした経験を試してみないのだろうか。
たとえそれがうまく行かなかったとしても、やはり縄なりピストルなりに最後の逃げ場を求めることはできるのである。
『幸福論(第二部)』ヒルティ著 草間平作 訳 岩波文庫
聖書の真実は、巧妙に隠されているとも言えます。そして、”その真実の部分に気づくための鍵” は「打ち砕かれた魂」なのです。
精神が打ち砕かれ、もう為す術もなくなってしまったような状況にでも追い込まれなければ、いったい誰が「神のもとへ立ち返ろう」などと思うでしょう。
「順風満帆で、なんの憂いも悩みもなければどんなに良いだろう」と私も思います。
しかし、そのような生活であったなら、”この世で最も価値のある宝” の存在に気づきもしないまま、いつかは滅びてしまうものを追いかけ回して、一生を終えてしまうことでしょう。
【助けて、死にたい】自殺した人は本当に楽になれたか?

もしかしたらあなたは、自殺する具体的な方法を考えているか、もしくは、これまでに考えたことがあるかもしれません。
しかし、自殺をしたら、本当に楽になれるのでしょうか?
あなたはその保証を、持っていないはずです。いいえ、そんな保証は誰ひとりとして、持っているはずがないのです。
苦しみが終わると思って何もかも捨てたのに、苦しみが終わるどころか、それから逃れるチャンスを永久に失ってしまったことになるのですから。
実際のところは誰にも分かりません。
しかし、上記のような可能性がある中で、一か八か死を選択するというのは、”あまりにもハイリスクな賭け” と言えるのではないかと思います。
【助けて、死にたい】私が提案している道は「ノーリスクの賭け」

考えてみてください。
仮に、”神がいるかどうかの賭け” に失敗したとして、あなたは何かを失うことになるでしょうか?
優れた物理学者であり、哲学者、数学者、思想家等、多彩な才能を有し、また、敬虔なクリスチャンでもあった、ブレーズ・パスカル(圧力の単位であるヘクトパスカルの名前でご存知かもしれません)は、以下のように述べています。
(略)「神は存在するか、しないかのいずれかだ。」しかし私たちは、どちらのほうに傾くだろう。理性はここでは何も決定できない。無限の混沌が私たちを隔てているからだ。この無限の距離の彼方で、丁が出るか半が出るかの勝負が行われている。きみはどちらに賭けるのか。
(略)きみはもう乗船しているのだ。そこで、どちらを取るのか。さあ見てみよう。選ばなければならないのだから、どうすればきみの利益をできるだけ損なわずに済むか、考えてみよう。
(略)きみの幸福はどうか。神が存在するほうを選んだとして、損得を秤にかけてみよう。次の二つの場合を計算しよう。きみは、もし勝てば、すべてを獲得する。もし負けても、何も失うものはない。だから迷うことなく、神がいるほうに賭けるべきだ。
(略)断言しよう。きみは今生で勝負に勝つ。そしてこの道を一歩一歩進むにつれて、利得がどれほど確実か、きみが賭けるものがどれほど無に等しいかが見えてくる。それで、ついにはきみ自身、自分では何の賭金も出さずに、確実で無限なものを目指して、賭けを行ったことを悟るだろう。』
『パンセ(中)』 パスカル 著 塩川徹也 訳 岩波文庫
つまり、この賭けは”負けてもリスクがない” ばかりか、”勝てば想像を絶するハイリターン” という、世の中の他の賭け事では、あり得ないようなものなのです。
しかも私は、「伸るか反るか、今、即断せよ!」と言っているのではなく、
むしろ「盲信せず、1つひとつ、このブログ等を通じて、自分で確認してから賭けるべき」と主張しているのです。
【死にたい時には】助けを求めよう、人にも神にも

「人は、ひとりで生きてゆくことはできない」とは、よく聞くセリフです。
もちろん、そのとおりだと思います。
しかし、聖書は言います。私たちが人間通しのつながりの中でしか生きられないのと同様に、「人は、神から離れて自分ひとりの力だけで生きてゆくことはできないのだ」と。
あなたには「死にたい」という思いについて相談できる、信頼の置ける誰かがいるでしょうか?
もし、いないのであれば、神に相談すべきです。
難しく考える必要はありません。友人に語りかけるのと同じように、あなたの悩みをぶちまければ良いのです。
信じることができなくても大丈夫です。そうであれば、
「神さま、もしあなたがいるのであれば……」というふうに語りかければ良いのです。
誰にも言えない、相談できないことは、神にもちかけてみましょう。
神は、周囲の人や出来事、テレビ、ラジオ、本など、あらゆるものを通じて答えてくれるからです。

助けを求めることは、恥ずかしいことなんかではありません。
信頼の置ける人がいるのであれば、つぶれてしまう前に相談すべきです。
自殺専用の相談窓口に相談してみる、という方法もあります。
心理療法を用いるのも良いでしょう。
また、”日々、耐えきれないほどの苦痛に直面している”という条件付きであれば、一時的に薬の力を借りることもありだと思います。私にもそのような時期がありました。
しかし、いずれの場合にしても、それと並行して”神に助けを求める”ことを忘れてはいけません。
まとめ
- 「死にたい」と思うことは異常なことではない。むしろそのような状況を生み出している社会の方が異常だと言える。
- あなたは、死んではいけない。なぜなら、そこから抜け出す道が存在しているから。
- 死を選ぶ前に、聖書の語っていることが真実かどうか確かめてみるべき。そのための鍵は、”打ち砕かれた魂”である。
- 一か八か死を選択するというのは、”あまりにもハイリスクな賭けである。それに対し、神に賭けるのは”ノーリスクな賭け”である。
- 信じることができなくても良いから、駄目もとで、神に助けを求めてみるべき。
いかがだったでしょうか?
このブログでは、聖書を人生の土台として生きるため「聖書という書物が本当に信頼できるものなのか?」ということを探究しています。
「揺るぎない人生の土台を築きたい」と思われた方は、どうぞ、
当ブログの目的が書かれたページから、この探究の旅へと参加してみてください。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。